「障がいがある子も参加できるように」という発想はインクルーシブではない

読みたい本があるんやけどちょっと高いし、新しい本やからメルカリにも売ってない、、、

 

そう思っていたら、上越教育大学の図書リクエストという制度をゼミ生に教えてもらうことが出来ました。

 

そこで2冊の本を大学図書館に買ってもらいました。

 

そのうちの1冊がこちら

 

 

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真正の「共生体育」をつくる 梅澤秋久 https://www.amazon.co.jp/dp/4469268860/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_KSokFbF1G288G

 

 

一人も見捨てない体育を実現するためのヒントとなる1冊でした。

 

 

 

この本で書いてあったことで印象に残っているのが、タイトルにも書いてある通り

 

「障害のある子とない子が共存できるという発想はもはやインクルーシブではない」

 

という事です。

 

 

 

みなさん、インクルーシブに関してどのようなイメージをお持ちですか?

 

多くの人が陥りがちな発想としては、上記のようなものです。

 

でも、共生社会に向けてというのは障がいがある人に向けてだけでは包摂できていません。

 

ユネスコの「体育・身体活動・スポーツに関する国際憲章」では、インクルージョン(包摂)の対象は

 

障害の有無、性別(LGBTを含む)、人権(民族・国籍)、年齢、能力、文化、社会的背景等、様々な格差

 

とされています。

 

自分が中学生の時の体育は男女別でやっていましたが、共生が求められている今、男女別の体育ではいけないのかもしれません。

 

そもそも、「○○である子も」と言う発想自体が良くないのかもしれません。

 

真正の共生体育とは「全員が一緒にできること」が求められています。

 

 

 

 

課題が勝敗を含むものであれば、課題を解決するために「弱者を排除する」という発想が出てきてしまう事も予測されます。

 

だから、現状のスポーツをそのま学校体育に持ち込むのは非常に危険な事であると学びました。

 

 

また、「課題を解決するために○○な子のために○○をしてあげよう」という考え方も、「○○な子のために」と言っている時点でそれはその子を下に見てしまっている可能性があります。

 

真の共生社会と全員がお互いのことを尊敬し合い、フラットな目線で見ることができるような社会のことです。

 

「○○な子」と言うんじゃなくて、「全員が○○できる」という発想に変えてみてはいかがでしょうか?

 

その目的のために勝敗を”ツール”にすることはアリだと思います。

 

勝敗がないとどうしてもスポーツとして盛り上がらない可能性もありますしね。

 

 

 

 

その中で培われる能力が「多種多様な人と関わる能力」です。

 

これまで工業社会では、言われた事を忠実に行う能力をつけることがよしとされてきました。

 

しかし時代は変わり、現在はSociety5.0と呼ばれる社会になりました。

 

言われたことを忠実に守るのは人間ではなく機械がやってくれるようになりました。

 

言われたことだけやる社会から、課題に向かって解決する力を求められるようになりました。

 

最近では多様性とかダイバーシティとかいう言葉をよく聞くと思いますが、これから求められるもの(もはやすでに求められている)ものは、多種多様な人と関わり何かを生み出す力であったりとか、予測が難しい社会の中で生き抜ける・活躍できる人材です。

 

そのために学校でやる必要があるのは、たくさんの人とつながることができる能力を子どもに身に付けさせたり、課題解決の方法を自分で主体的に見つけることが出来たり、課題自体を自分で見つけることができる能力をつけることです。

 

 

 

上記のような能力をつけるためにも、真正の「共生体育」には非常に可能性を感じました。