2回目のワクチン接種にいってきました。

今日は2回目のワクチン接種に行ってきました。1回目の接種はなんと失神してしまい、救急車で総合病院に運ばれることに。

実は僕、歯医者さんの口元の部分麻酔でも失神するんです。つまり、針がこわいんですね。情けない、、、。

今日は問診のときに、「前回失神してしまって、、、」と申告しました。すると、集団接種会場の裏のベッドにつれていかれ、そこで横になって接種させていただくことができました。

自分の体をしっかりと把握し、それを申告することの大切さをこのワクチン接種で学びました。

さて、明日は熱がでるかなぁ、、、。

やりたいこと、将来の夢ってどうやってみつけるの?

人生の幸せの半分は結婚、その半分(4分の1)は子ども、その半分(8分の1)は仕事だそうです。つまり、結婚、子ども、仕事で人生の幸せの8分の7を占めていて、あとの幸せは残りの8分の1だそうです。

 

今日は、その仕事についてです。

 

仕事は人生の幸せの8分の1を占めているわけですが、人生100年時代と言われている中で、8分の1というと約12年分という事になります。12年分って結構ですよね。どんな仕事に就くかは、人生を幸せに過ごすためにも大事だという事はやはり大切なことです。

 

また、昔は仕事は人が嫌がる仕事をする人や、上のいう事を忠実に聞く人が成功していましたが。しかし、そんな仕事は最近では機械がやってくれます。

 

では、どのような仕事に就けばいいのか?ここでよく言われるのが、「自分が好きな事を仕事にしよう」ということです。

 

ただ、教育現場に出てみると、そもそも自分の好きな事って何だろう?という子が多いなと感じます。好きな事もないし、やりたいこともない。

 

その原因として2つあると考えていて、1つはだいたいのものは望めば手に入ってしまうという事が考えられます。尾原和啓の『モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書』では、望むものがすぐに手に入るがために欲が無い、そんな世代の事を「乾けない世代」と表現しています。

 

おなかがすいたと思えばコンビニに行けばいいし、暇だと思えばネットに行けばいいし、だいたいのものは望めば手に入ってしまうんです。だから、乾くことができない、やりたいことがなかなか見つけられないという事があるんだという事が考えられます。

 

もう1つは、やりたいことや将来の夢を「決めなくていい」ということです。具体的に言えば、中学校を卒業すれば高校に行き、だいたいの人が大学に進学する世の中になった今、大学までは何も考えずに遊んでいる事ができます。

 

総合学科普通科と呼ばれるところに行けば、「とりあえず入ってみてからやりたいこと決めればいいか」でいいわけです。入ってから決めればいいということは、入ってからもとりあえずは決めなくていいという事にもなると思います。

 

そして、とりあえず高校・大学に進学して結局非正規雇用で就職する。奨学金までもらってそれはちょっと損ですよね。

 

 

じゃあどうすればいいのか?そこは僕はまだあまり分かっていません。やりたいことってどうやって見つければいいのか?「将来の夢を見つけなさい」という指導をすることになるんやろうけど、それがどのタイミングで、どんなきっかけでみつかるのか。

 

子どもの将来を幸せにする上でそこを発見することは大切なポイントだと思うのですが、まだまだ答えは見つからなさそうです。

野球をしたいのは子どもなのか指導者なのか

今日は、地域の野球部の研修会がありました。2学期の期間に行われる野球の大会についての話題がほとんどでした。

 

途中、話のネタとして「地域の中学校軟式野球硬式野球に取られないために」といった内容の話になりました。

 

文部科学省では、令和5年度から段階的に土日の部活動を地域に移行していきましょうねって通達が出ています。ただ、文科省の意図としては、「学校の部活動がブラックだと言われているけど、そんな急に地域に移行はできないからとりあえずまずは土日。ゆくゆくは、土日ができるなら平日も移行してはどうか?」と考えているのではないかと思っています。(僕の希望も含まれていますが。)

 

そんな中、逆に中学校の野球を潰さないようにするためにはという話が地域ではでている。ただ、地域では人口減少も相まって1つの学校で野球ができる状態ではなくなってしまっています。

 

このまま部活動を地域でまとめてしまってやれる人がやって、ほんでそこで指導できる人にはお給料をだす。こんなしくみにすれば誰にとってもwinやのに。受け皿とか場所の問題はまだまだありますが。

 

研修の間そんなことを考えていましたが、もちろんそんなことは言いませんよ。

 

「中学校の野球人口を集めたい」のは教員側の勝手なエゴであって、そこが少なくなって地域の硬式野球チームに流れてしまっているということは、子どもや保護者のニーズはそっちにあるということですよね。

 

こどもに野球をやらせてあげたいのか、自分が野球の指導がしたいだけなのか。ちょっと疑問に思いました。

迷惑をかけるのは本当にいけない事?

1学期中に、こんなことを言われた事が印象に残っています。

 

「授業のトラブルが授業の外に波及した時に他の先生に迷惑がかかってしまうのは・・・」

 

僕って、授業中に何かトラブルがあったときとか、生徒が失敗してしまった事とか、そんな時こそ教育のチャンスだと思っているんです。なぜなら、トラブルや失敗を生徒同士で解決することで、生徒の自立につながると考えているからです。

 

また、そんなトラブルの中でも最も大きなトラブルが人間関係のトラブルではないでしょうか。ただ、学校の中で起きる対人関係のトラブルよりももっと深刻なのは生徒が卒業し、社会に出てからのトラブルではないでしょうか?

 

だからこそ学校の中では、彼らがトラブルを自ら解決し、自立していくのを支援していく必要があると思うんです。

 

 

 

ただ、対人関係のトラブルってそんなすぐに解決するものではなくて、授業中に起きてしまえばもちろんその授業の外にまで影響してくるわけです。ただ、彼らにとっては人生において大事な課題になってくるわけですので、そんな課題を大切にしないといけないと考えているわけです。

 

そこで出てくるのが「ほかの先生に迷惑がかかってしまう」という事。ただ、少し傲慢な言い方になってしまうのですが、そんなときぐらい迷惑をかけていいと思うんです。

 

むしろここで迷惑という言葉を使う事自体が適切なわけではなく、それこそ最近では「チーム学校」と謳われているように、教員がチームとして解決すべき課題だと思うんです。そこを「迷惑」と言ってしまうのは、なんかあんまりしっくりこないんです。

 

この感覚、なんとなく伝わりますでしょうか?

 

 

 

ただ、チームで働くために、または助けてもらうためには普段からいろんな先生を助けたり、手伝ったりする事が必要だと思います。それ無しに、「迷惑とかいうんじゃなくてそこはチームとして・・・」というのはそれこそ傲慢ですし、本当の意味で迷惑になってしまうと思います。

 

普段から色んな人を助けていたとしても、考え方の違いによってはどうしても「迷惑」と考える先生もいらっしゃると思いますが、お互いに何かあったときに助け合ったり、生徒の重要な課題に対してチームで取り組んだり、そうやってギブ&テイクの関係で教育していくことこそが「チーム学校」のあるべき姿だと僕は考えます。

 

 

 

気をつけたいのは、「返してもらうため」という考え方で普段から人助けをしてしまう事です。その考え方は、いざ自分が困ったときに手伝ってもらえなかったときに「助けてあげたのに・・・」と考えてしまう原因になってしまいます。

 

そう考えると、ギブ&テイクより、ギブ&ギブという考え方が素敵なんじゃないかなと思いました。

だからといって嫌われていい訳ではない

昨日の記事では、「同僚とは友達になれない」という事を書きました。

 

しかし、そこでふとよぎったのが先日読んだ『嫌われる勇気』です。

 

同僚に本音で話すと相手からなんて思われるか分からない。関係が悪くなってしまったらその後の仕事に支障が出るかもしれない。

 

つまり僕は、嫌われることを恐れているんですね。

 

確かに嫌われるかもしれない。でも、自分が心を閉じたままでは相手は心を開いてくれるかわからない。自分にできる事は、相手を信じて本音で話す事。つまり、嫌われることを恐れず相手と関わる事。

 

そこで、相手が自分のことをどう思うかは相手の課題なので自分は介入することができない。

 

『嫌われる勇気』の哲人はきっとこんな感じに言ってくるんでしょう。

 

でも、ここで嫌われることを恐れずに本音で話をして、本当に嫌われてしまえばその後やりにくくなるのもまた事実でしょう。職場で生き残っていくためにはそれは賢くない選択なのかなと思います。

 

そこでふと僕の頭をよぎったもう一つの書籍が、スティーブン・コヴィーさんの『7つの習慣』です。

 

7つの習慣の中の1つに「win-winの関係」の事が書かれているのですが、もし相手とwin-winの関係を築くことができなさそうなら交渉をやめる(No Deal)ということも選択肢に入れるべきと書いてありました。

 

こんかい、僕は同僚の人と友達になる事について考えていましたが、意見が対立した時にで僕が本音を話したところででてくるwinがなかなか見つかりません。

 

ということは、きっとここはNo Dealという事でよかったんだと思います。

 

 

もしかしたら今後、本音を話せる関係になることもあるかもしれませんが、それもタイミングがあると思いますので、それまではNo Dealでいようと思います。

同僚は友達にはなれない

昨日、大学院の友達とご飯を食べに行きました。

 

彼らと話していると、やっぱり楽やなぁと感じます。

 

もちろん、職場の先生方はみんな言い方ばかりですし、あんなにいい環境の職場はこれからあるんかなぁ?と思うほどです。

 

でもやっぱり、自分と違う意見の話で盛り上がっている中で僕はなかなか「僕はこう思うんです、、、!」という事はできません。ここでこんな事言ったら今後働きにくくなるしなぁ、、、とかそういった考えがよぎって、結局腹を割って話をすることができないんです。職場の同僚はどれだけ仲良くなっても、友達にはなれないのかなぁと感じた瞬間です。

 

ただ大学院の友達は違って、学校の中での悩みが彼らには腹を割って話をすることができるんです。彼らに話しても学校で働きにくくなることはもちろんありませんし、やっぱり彼らは同僚じゃなくて友達なのでだいたいの事を話することができます。

 

同僚と友達の具体的な違いはって言われると、職場の人かそうじゃないかって所以外の、どこか精神的な違いを説明するのが難しいんですが・・・でもやっぱり友達は友達なんです。なんせ話していて楽なんです。

 

職場の外にこうして話ができる人がいるということ、そんな人にご飯を誘ってもらえることに感謝しながら、彼らとはこういった関係を続けられるように僕からも食事に誘ったりしたいなと思います。

 

 

あ、あと、大学院とか、西川研究室が相変わらず平和そうであんしんしました。

人の幸せが幸せと感じられる人間が成功する

『夢をかなえるゾウ』を読みました。

 

 

f:id:nbnl_takashi:20210725064317p:plain

夢をかなえるゾウ文庫版 水野敬也 https://www.amazon.co.jp/dp/4864100829/ref=cm_sw_r_tw_dp_CK2SQTS4RMQSRDGVM31A

 

この本は、ある普通のサラリーマンを成功させるためにインドの神様であるガネーシャが毎日課題を言い渡し、サラリーマンが段々と成長していくといったような物語です。テレビドラマにもなっているようですね。

 

ガネーシャの課題には他者にかかわる事が多いと感じています。「人が欲しがっているものを先取りする」「会った人を笑わせる」「自分の苦手な事を人に聞く」「身近にいる一番大事な人を喜ばせる」「プレゼントして驚かせる」など。

 

最近、嫌われる勇気、幸せになる勇気を読んだこともあって、「すべての悩みは対人関係の悩み」「すべての幸せは対人関係の幸せ」という所とのつながりを感じました。

 

特に、共同体感覚の話。人生のタスクが「愛のタスク」の段階まで行くと、幸せの主語が「わたし」から「わたしたち」になり、自分が幸せだと思える範囲が段々と増えていきます。

 

ガネーシャの課題にも、こういった意味が込められているんじゃないかと思います。

 

例えば、「募金する」や「プレゼントして驚かせる」という課題について。自分が他者に対してなにかしてあげることによって、自分も幸せを感じる事ができるようになりなさい、という事をガネーシャは言っているのですが、これはアドラーの言う人生のタスクに挑むという事とと似ていますよね。

 

他者の幸せとは何かを考えることができる。そしてそれが自分の幸せにもなる。そんな事が自分の仕事になればきっと成功しますし、仕事をすることで自分の幸せにもつながるのでモチベーションにもなりますよね。

 

また、「これをしたらこの人は喜ぶんじゃないだろうか」という事はAIにはできません。いろんなデータを集めて統計を出して、それに近い情報やサービスは提供できるのかもしれませんが、人の心は場所や場面でコロコロと変わります。その人の雰囲気、表情、性格などをなんとなく読み取って、その人が喜びそうなものを提供できるのはきっと人間だけなんですよね。

 

だからこそ僕ら教育者は、そんな子どもを育てないといけない。そんな人が世の中であふれれば、平和で幸せな社会が築けるのではないかと思います。