明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

自分をよく見せようとしてしまう人間の習性について

人間って、自分をよく見せようとしてしまいがちですよね。

 

何かにチームで貢献したとしても、「自分がやったんだ!」と言ってしまったりします。

 

夫婦やカップル間で「お互いの関係を維持するために自分はどのくらい貢献していますか?」という質問に対して、多くは二人の合計が100%を越えてしまうそうです。

 

また、具体的に貢献したことを挙げてもらっても、自分がしたことより相手にしてもらったことの方が思いつかないそうです。そりゃあ自分に見えないところでも相手は自分のためにいろいろしてくれてますもんね。

 

これらは”責任のバイアス”と呼ばれ、相手の度努力に対して自分の貢献を高く見積もってしまうことを言います。

 

 

 

なぜ人間は、自分を大きく見せたいのでしょうか?

 

自分を大きく見せるという事は、相手を小さくしている、つまり侮辱することにもなりかねません。

 

これは競争心が働いているからで、やがていじめにも発展しかねません。

 

このようなことを防ぐためにも、集団を競争して大きくするのではなく、協働によって大きくする必要があります。

 

協働と競争の違いは簡単に言うと、目標としているものが全員達成できるかと言うところにあります。もちろん、全員が達成できれば協働、できなければ競争という事になります。

 

競争が起こってしまう事の原因としては、みんなを同じ物差しで測ってしまうことが原因だと思います。

 

同じ物差しで測ってしまえばもちろん、お互いに優劣がついてしまいます。

 

そうではなく、一人一人の価値を認め合い、それぞれが違ったところで勝負することが出来ればお互い認め合えるようになります。

 

 

学校の中で言う体育で現存のスポーツをそのまま持ち込んでしまうのは、競争の原理を働かせてしまいかねません。

 

そもそも学校と言うのは、正解を導き出す力ではなく、問題を見つけ出す力や課題を解決する力を求められるようになっています。

 

だから、技術を身に付けるとか、その辺の意味合いで授業をする必要は実はなかったりします。

 

技術とかを身に付けさせるのは、クラブとかに譲るべきではないかと思います。

 

そのためにも競争する仕組みではなく、共存、共生するような仕組みが学校体育では必要ではないかと思います。

 

 

また、集団を個人レベルで評価することもまた、競争の原因となってしまいます。

 

この子はこれだけ集団に貢献した、この子はさぼってばっかりだったと一人一人を評価するのではなく、集団として評価することが必要です。

 

そのために個人が自分の才能を集団のために使えば、その人は才能によって感謝されることになります。

 

もし、競争社会の中でその才能を発揮していると、せっかくの才能が妬みの標的になったりしてしまいますよね。

 

現在で言うと、ギフテッドと呼ばれる人がそれにあたると思います。

 

 

 

競争社会で個人を大きく見せて周りを蹴落としあう社会より、協働によってみんなが幸せになれる社会の方が、素敵だと思いませんか?