明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

オンライン上でのコミュニケーションがぎこちなくなる理由

人間は言葉を使ってコミュニケーションを取ることが多いですが、言葉以外にも身振り手振りや表情、最近では文字を使ってのコミュニケーションも増えました。

 

中でも、アイコンタクトによるコミュニケーションは重要だと思っています。

 

トランザクティブ・メモリー(集団の中で誰が何を知っているかをどれだけしっているかという指標)は、顔を突き合わせてのコミュニケーションによって向上していくことが明らかになっていますし、言葉をつかえない状況でアイコンタクトによって相手に何かを伝える事もしますよね。

 

 

最近、オンラインで何人かで話をする機会があったのですが、オンラインって話出しが難しかったりしないですか?

 

話し始めると誰かと会話がかぶってしまったり、逆になかなか誰も話し始めなかったりと。

 

それが起きる原因って、まさにアイコンタクトによるコミュニケーションができないからだと思うんです。

 

 

通常の会話であれば、話をする人の方向を向いたり、自分の話が誰かが話し始めるのとかぶらないようにきょろきょろしたりと実は知らないところで人間は気を使っているみたいです。

 

それによって、スムーズに会話ができていたのですが、オンラインになると画面上に複数の顔があり、誰かの画面をピン止めしたり話をしている人にスポットを当てたりすることぐらいはできますが、アイコンタクトは使えません。

 

結果、会話がぎこちなくなってしまいます。

 

 

現代は、リモートワークやオンライン授業という言葉が主流になり、オンライン上でコミュニケーションを取ることも当たり前になってきました。

 

しかし、それは実際に会って話すのとはまた勝手が違います。

 

これからもっともっと社会はオンライン化が進む可能性がありますが、その中で生きていくにはオンライン上のコミュニケーションと実際にあってのコミュニケーションの両方を鍛えておく必要があるのかもしれません。

「自分らしく生きる」こと

僕は、小さいころから納得できないことはとことん納得できない性格です。というのも大学院に入ってから気付いた事なんですが。


「たかしってちょっとしたことに疑問を持つよね」といろんな人に言われました。確かに言われてみればそうなのかも。


そういえば、M1の時のゼミの時に、西川先生にした質問の返答がどうしても納得できなくてゼミの時間に不機嫌になったこともあったかな。


先生にはいろんな質問したけど、あれが一番印象に残ってるかも。だっていまや逆に先生の返答通りの考え方になってしまっているのだから。人間って分からないですね。

 


その性格もあいまって、現在の学校現場ではもやもやすることが多いのだと思います。


主体的な学習ツールであるはずのICTを制限しながら使わせている事、個別最適化と言いながら学習指導要領でやることが決まっている事、オリジナリティが求められる世の中にも関わらず全員に受験競争が強いられていること。


髪形とか服装とか細かいところで言えばもっとありますが、この環境でやっていくにはこの環境に疑いを持つような知識を持たないようにするか、無理やりこれらに納得しないといけません。


そのいずれも僕にとっては難しい。


大学院で、本当の意味で子どものためになる教育って何なのだろう?と突き詰めた結果たくさんの知識を手に入れてしまいましたし、無理やり納得するのは僕の性格上難しいんですよね。


このブログのタイトルである「自分らしく生きる」も結構適当につけたんですが、今考えると僕自身の生き方を凝縮した一番シンプルなタイトルだなと感じています。

 


どの現場に行こうと、どの職場になろうと納得できないことは必ず存在すると思いますし、そういったこととも折り合いをつけながらやっていかないといけない事ももちろんですが、自分の中の核とか正義とか、そういったものは貫いてこれからも自分らしく生きていけたらなと思います。

保健の授業の内容は生きていくうえで必要不可欠

僕は中学生の頃から体育の先生って、「体育の」先生だと思っていました。まぁ当たり前の事ではあると思うんですが、実際は体育じゃなくて「保健体育の」先生なんですよね。

更に、なんかの文章とか名前とかっていうのは、大事なこと程先に書くというイメージがあります。

だから、上越妙高駅ができるときは上越妙高が、燕三条駅ができるときは燕と三条がもめたんですよね。まぁそれは置いておいて。


保健体育の教員になってから、確かに体育よりも保健の方が大事よなぁと感じることが多くあります。保健の方がというと語弊があるかもしれませんが、、、。

だって、保健の授業って生きていく上で全員が必要な事ばっかり扱うんですから。

食事のこと、休養の事、医療制度の事、体の仕組み、今でいえば感染症の事とかも保健の授業で扱います。

これらは知っていないと、自分の体を健康に保つことができません。小学校・中学校に通っている頃は給食である程度栄養のバランスが保たれますが、いざ一人で暮らすとなると自分で食事を管理しなければいけません。

健康のためには運動も必要なのですが、なぜ運動が大切なのかが分かっていないとなかなか取り組みにくいと思います。

体育は、運動を続けるために「運動楽しい!」と思うためのきっかけの授業だと最近は考えるようになりました。


生徒の運動能力が下がっているとか、サッカーが上手くなるとかそういったことは本当はどうでもよくて、本当に大切なのは運動を続けるという事だと思います。

運動ができなくても、サッカーができなくても生きていくうえであまり困りませんが、健康に生きていけなければ困りますよね。

子供の将来に本当に必要か?という視点で見れば、保健はどの教科よりも大切な教科だと言えるのではないでしょうか?


そんな保健の授業で『学び合い』をしています。「今日習ったことで点数を取るのも大事やけど、日常で活かすことが一番大切なことです」と子どもたちには繰り返し語っています。

知り合いの知り合いに自分の考えを広めるために

僕は、度々SNSで教育の事について発信しています。その目的としては、

 

①自分が考えたことを残しておくため

②自分の考えをアップデートするため

③自分の考えを世の中に広げるため

 

といった感じですかね。まぁいろいろと理由はあるんですが、今日は③の「自分の考えを世の中に広げるため」という所の話をしようと思います。



僕が広げたい事としては、大きく「部活動を学校から切り離しましょう」ってことと「教育を変えましょう」です。

 

これらを広げるために、「広域通信制が~」とか「総合型地域スポーツクラブが~」とかを頻繁に発信しているわけです。

 

部活動に関しては学校が変われば変わるものだと思いますので、今は「広域通信制が~」という所を全力で発信しています。



僕の発信はこのブログとFacebookTwitterなんですが、SNSって繋がっている人にしか発信できないんですよね。

 

誰かがシェアしてくれたりリツイートしてくれたりすると、その知り合いの知り合いにまで伝わるのですが、結局ここで発信する事って自分の身内にしか発信できていないんだなぁと感じます。



最近、増田直紀さんの「私たちはどうつながっているのか: ネットワークの科学を応用する」を読んでいて、「意外と知り合いの知り合いの知り合いぐらいまで行けば結構多くの人に辿り着くんやな」と思ったんですが、その知り合いの知り合いに自分の情報をたどり着かせるためには、もちろんその知り合いの方に僕の考え方を広めてもらう必要があると思うんです。

 

そういった意味では、西川先生が提唱した『学び合い』は、西川先生の知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの・・・人に広まっているので本当にすごい事なんだなぁと感じています。

 

だって、それを広めてもらうには、その情報がその知り合いの知り合いの・・・にとって有益な情報であり共感できなければいけないんですから。

 

『学び合い』は問題意識を持った先生方の多くの心に刺さっているということなんですね。



だからこそ、僕がここで発信することはできるだけ有益な情報である必要がある。

 

もちろん、発信を続けるためには発信することが自分にとって楽しいものでなければいけないので全部の投稿を多くの人にとって有益な者にする必要は無いと思います。

 

しかし、できるだけ質の高い投稿をし続けるために、世の中の動きなどにしっかりとアンテナを立てて、常に問題意識をもって活動をしていかないとなと思いました。

自分らしくあれることの幸せ

この土日は、友人と食事を食べに行くことが多かったです。

やっぱり友人と一緒にいるのは楽しい、居心地がいい。

多分、それは変に気を使わなくていいからだと思います。

職場の先生方もものすごく言い方ばっかりですし、めちゃくちゃ仲良くさせて頂けています。本当に人に恵まれたなと思います。

でも、やっぱりどうしても仕事の関係となると気を使う部分が多かったりします。


仕事に関しても、どうしてもどこかで自分が本当にやりたいことを押し殺し、我慢している部分があります。

そういった部分に関してもやもやする事、やるせない気持ちになることは決して少なくありません。



もちろん、友人相手であっても気は使うし、冗談を言うにしても相手によっては傷つけてしまう事もあるのでそこは友人関係であっても最低限必要な所です。

でも、自分らしくあれるのはやっぱりありがたいなと思います。

自分らしくあれるかどうかというところが、最近よく聞く「心理的安全性」に繋がっているんでしょうね。

自分らしくあることを認めてもらえる関係、胸を張って自分らしくあれる集団。

そんな関係の友人を持つことができている事がどれだけありがたい事か。



あぁやって仕事場でも堂々と自分らしくいれたらいいのにな。



そんなことを考える週末でした。

『学び合い』は授業の外でもできることを伝えたい

『学び合い』は

 

 

①学校観:学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場である。

 

②子ども観:子どもたちは有能である。

 

 

の2つの観から成り立ちます。

 

 

授業観というものもあったのですが、考え方が洗練されて最近では上記の2つの観だけを言うようになったそうです。

 

 

これを基に、全国の多くの先生方が『学び合い』の授業を実践されています。

 

 

 

『学び合い』が話で持ち上がるときによく言われるのが、「『学び合い』は方法じゃなく考え方である」ということです。

 

 

『学び合い』と名前の付く多くの書籍は授業方法や実践例の事ばっかり書いてる(今年度が始まる直前に、上教大の阿部先生が『学び合い』による学級経営の書籍を出版されています。)から、「いやいや、結局授業のことやん」って僕も思っていました。

 

 

ただ、いざ現場に入ってみると、「『学び合い』って授業じゃなくて考え方やな」って本当に思います。

 

 

 

担任の先生が抜けている日で僕がクラスの朝の会、帰りの会を見るとき、給食の時間、休み時間、部活動等、全ての時間をこの「学校観」にあてはめることができます。

 

 

そして、この学校観に向かって『学び合い』を実践するうえでポイントとなってくるのが、まさに子ども観である「子どもたちは有能である」ことを教員が信じれるかどうか。

 

 

この2つだけを考えながら行動すればいいため、何か自分が困難に陥った時はこれと照らし合わせて行動することができます。

 

 

本当にシンプルで分かりやすい行動指標なので、迷うことも少ないんですが。

 

 

そうなってくると、『学び合い』というのは授業の場面だけに限らず、「授業観」が無くなったこともうなずけます。

 

 

 

 

『学び合い』を方法だと捉え、ただ生徒に課題に取り組ませるだけではそれはただの「放任」になったり、「遊び」になってしまったりします。

 

 

「子どもたちは有能である」ことを信じることができなければ、そもそも『学び合い』を実践することはできません。

 

 

だから、『学び合い』を実践するうえではこの2つのどちらか一方でも抜けては行けないわけです。

 

 

 

逆に、この2つをしっかりと理解している人は、「学校観」を基に生徒が出ていく社会の変化を敏感に感じ、学び続けると思いますし、多くの裁量を子どもたちに任せることができるのだと思います。

 

 

そして、この2つの観を基に教育しているため、その実践は授業に留まらず学校教育のあらゆる所で実践することができるのだと思います。

 

 

 

ただ、『学び合い』関係の書籍や研究は授業に特化したものがほとんどです。もちろん、入りは授業でいいと思うのですが、その書籍だけを読んで方法だけで実践してしまえば『学び合い』をしている意味がありません。

 

 

 

 

授業以外にも、阿部先生の学級経営の書籍をはじめ、掃除とか部活とか給食とか生徒会とかいろんなところで『学び合い』の実践をしている方がいるのではないでしょうか?

 

 

そもそも『学び合い』の実践としてある活動にフォーカスする時点でナンセンスなのかもしれませんが、『学び合い』が授業以外でも実践できるということを多くの人に伝え、「『学び合い』は方法じゃなくて考え方だよね」という会話が無くなるぐらい、考え方として浸透すればいいのになと思いました。

 

 

「何で学校に行かなきゃいけないのだろう?」という質問に回答するために

「何で学校に行かなきゃいけないのだろう?」


そう思ったことはありませんか?ちなみに僕はありません。


そこに疑問を持ったことはありませんでしたし、そもそも学校に行くのが億劫になったこともありませんでした。


別に学校が嫌じゃなくても「何で?」と考える生徒はいるとは思いますが。

 

緊急事態宣言により部活動が休止になる時期がありましたが、「部活動が無いなら学校に行く意味がない」と考えている生徒も全国にはたくさんいるようです。


ということは、そう考えている子も部活以外の活動に意味は見いだせていない訳です。

 

それってどうなんでしょうか?


「学生の本業は勉強」だと世間ではよく言われていますし、部活はそもそも教育課程外の話しな訳です。ついでに言えば、部活のほとんどの時間は残業です。しかもほぼタダ働き。

 

部活にだけフォーカスしましたが、子どもにとって自分の将来と今の学校がなかなか結びつかない事に気付く子は少なくないはずですし、その学校生活が楽しくないのなら「何で行くの?」となるのも不思議ではありません。

 

これは、そもそもの教育の目的が教育現場でないがしろになってしまっている事が原因だと考えます。


教育の目的とは、教育基本法第一条で

「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

とされています。


この目的を掲げる理由として、教育基本法の前文に

「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」

と書かれているんですよね。


まぁそもそもこの目的が長かったり抽象的すぎたりという事が無いこともないと思うのですが、教員全員がここに向かっている感はないなぁという気がします。


どういうことかというと、企業であれば「企業理念」とか「ミッションステートメント」とか呼ばれるものがありますよね。


スタバであれば

「人々の心を豊かで活力あるものにするためにー一人ひとりのお客様、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティから」

という理念の下に行動指針を構築し、社員全員がそれを基に働いていますし


ディズニーだって

ウォルト・ディズニー・カンパニーのミッションは、私たちを世界最高峰のエンターテイメント企業たらしめている象徴的なブランド、創造的な精神、革新的なテクノロジーを通じて、他に類を見ないストーリーテリングの力で、世界中の人々にエンターテイメント、情報、インスピレーションをお届けすることです。」

というミッションの下、社員同士を「キャスト」と呼び合うなどの徹底ぶりがされています。

 

教育には「人格の完成」という最上位の目標があるものの、受験を目指して行う各教科の授業とか、勝利至上主義の部活動はそこに向かっているのかどうかは疑問です。


先生方一人一人に裁量があることはいい事なんですが、ゴールがないがしろになってしまっているために、全体としてブレブレな教育になってしまっています。

 

そりゃ、生徒も「学校って何で行かなきゃいけないの?」ってなりますよね。

 


教育の目的というものをもっと強調して、「本当にこの活動は人格の完成に近づくのか?」を明確にすれば、必要な仕事、必要でない仕事を選別することができると思います。


そうすれば、働き方改革にもなりますし、教育としてもブレの無いものにしていくことができる、「学校って何で行かなきゃいけないの?」の質問にも胸を張って答えることができるようになるのでしょうか?