明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

教育は公教育の外から変えていかないといけない

大きくなった企業や、企業文化が強固になりすぎた企業はなかなか変化することができません。

 

これをイノベーションのジレンマとかそれと似た概念の言葉とかで表すことができると思うのですが、教育の世界ほどこれが当てはまるものは無いなと感じています。




数十年前の教育(工業化社会とかSociety3.0とか言われていた時代)の教育は、いかに多くの事を記憶したり処理したりできるか、またいかに上から言われることを忠実に聞けるかという所が教育のポイントだったと思います。

 

いい高校、いい大学、いい企業に就職することが正解に近い進路だったため、保護者からのニーズとしても学力の向上が一番だったと思います。




しかし、時代は変わり、世の中に正解なんてほぼ存在しないような社会になってきています。

 

しかし、今まで成してきた顧客(保護者)からのニーズである学力の向上とか従順な生徒を育てる事とかに注力しすぎた教育という企業は、時代とともに生れてきた新たなニーズに気付くことができません。

 

学習指導要領として固定化された教育は法的効力をもつものとして強固なものになってしまっているためなかなか変えることはできません。企業文化として多くのものを背負いすぎてしまっている働き方や教育方針も、多くの人がそれが正義だと考えているためそれを変えることも難しいです。




ただ、だからといってこのままではこれからの未来を担う子どもたちが現代社会の急流に飲まれてしまう。また、この違和感に気付いている教員の方々が悶々としながら教育している現状を変えることができない。

 

だから、変える必要がある。

 

改善とかそういったレベルじゃなくて、それこそイノベーションとか改革とか呼ばれるぐらいの変化が無ければいけない。



しかし、教育というコミュニティを内から変える(改革する)ことは不可能に近いことだと思います。



改革するには、コミュニティの外から変えるしかないと思います。

 

コミュニティの外に新しい何かを構築し、そっちが主流になるようにする。

 

ガラケーが主流だった時代もスマホが出てきたことによりガラケーは駆逐されました。音楽がダウンロードできるようになりCD業界は危機が訪れています。カメラもスマホの性能が高まったことにより、危機が訪れています。

 

教育もこのように、今の教育のコミュニティ外、つまり文部科学省地方自治体の管轄の外から変えていくしか無いんだと思います。

 

そしてそっちが主流になっていくようにする。

 

今で言えばN高になるんですかね。CMでやっている「脱偏差値教育」ってフレーズ、シンプルでグサッときますよね。



そのような学校が主流になるには、そこに入ったが生徒うや保護者が「この学校最高!」という口コミを広げる事や、卒業した生徒が活躍することで当人が世間にいい評判を広げることが一番だと思います。

 

そして段々と入学者数が増えれば、世の中の主流も変わっていくのではないでしょうか。




今のところ、順調すぎるほどに入学者数を伸ばしている広域通信制の学校は、高い確率で主流になると思います。僕らができるのは、その流れを早める事。

 

だからこそ、こうして発信して、少しでも広げることが大切なんですね。




もし、同じ考えの方がいらっしゃったら、積極的に発信したり、拡散したりしてみてください。

習ったことは覚えているというのなら教材研究なんていらない

「それこの前習ったやん!」
「それ中学校で習うことやで!」

この言葉、結構聞きますよね。

でも、習ったからと言って全部できる人は天才です。

また、習ったからと言って全てできるようになるなら、教員が頑張って教材研究をしたり授業を考えたりする必要も無いわけです。

習った範囲を全部覚えているなら、黒板に書いてそれを説明してという方法が一番効率が良くて授業スピードも速いです。


ただ、実際そんな人間いないわけですよね。大人の僕らでさえも、職員会議で言っていた内容を全て覚えている訳ではありません。また、長い会議の間ずーっと集中できている訳でもありません。

「そんなことまだ中学生にはできないんじゃない?」と言っている方もいらっしゃると思いますが、そんな中学生に「習ったことは全て覚えているのが普通だぞ」というのは酷じゃないでしょうか?



僕は、先生が教えているか、教えていないかによる説明責任についてあんまり納得できていません。

範囲じゃないところからテスト問題を出すことは間違えていると思いますが、だからって教えている所を全て覚えている訳でもありません。

逆に、その説明責任に引っ張られて教えた“事”にしている方もたくさんいらっしゃると思います。だって、教えてないことになると責められるんですから。

そういったことから、教育では暗黙裡に「身についたか」よりも「教えたか」が重視されてしまっているんだと思います。実際大事なのは間違いなく前者ですよね。

学習内容を身に付けるためには、教師から教えられるのではなく、自ら学ぶ事が大切だと思います。だから、「主体的・対話的で深い学び」という言葉が強調されたんですよね。

しかし、学習指導要領でそうやって言われたからって、学校文化により主体的な教育が阻害されてしまっています。



そういった状態に陥ってしまうのは、学校評価が受験に関わってくることが原因だと思います。

自らの学習状態を振り返るためにある評価が、実際には受験のためだけの者になってしまっている。だから、教育熱心な過程は血眼で評価をあげるために努力し、納得いかなかったら「本当に教えたんですか?」と説明を求めてくる。

ってかそもそも、灘高、東大受験では授業で習ってない事もいっぱい出てきますよね。そこに説明責任はいらないんですね、、、。

こういった学校文化に変化が無ければ、いくら学習指導要領を変えようが、1人1台タブレットを持たせようが何も変わりませんよね。

恒大集団の経営危機の報道をみて考えたこと

今朝のニュースで、中国2位の不動産企業である恒大集団の経営危機による世界的な株価の急落が報道されていました。

恒大集団は不動産以外にも電気自動車の開発やテーマパーク等多様な事業に手を伸ばしている企業で、中国1の富豪である許家印さんによる会社です

経営危機が訪れた理由は、自転車操業による企業運営により負債が膨らんだ事にあるようです自転車操業とは、自転車は運転し続ければ横に倒れないように、慢性的な赤字があるにも関わらず借金を回転させて操業を続けていくことだそうです。

これを受けた中国政府がどのように動くかが注目されています。

中国政府がこれを助ければ、「結局富豪層の味方かよ」とマイナスなイメージになってしまいますし、助けなければ第2のリーマンショックが訪れるとも言われています。

恒大集団の株を買っている投資家たちは「恒大、金返せ」とデモを行っているようです。




このニュースをみて、2つの事を考えました。

1つめは、中国一の大富豪が経営する大企業でもこういった事態に陥ってしまうほど現代社会は見通しが持てないんだなと思いました。

確かに、許家印さんの資金運営の方法には問題があったのかもしれませんが、恒大集団は1996年に創立した25年続く大企業です。日経ビジネスの記事で、創業5年後の企業の生存率は15%、10年後は6.3%、20年後は0.3%と出ていたのを見ると、25年経った今なお大企業であり続ける難しさが分かります。

そんな大企業でもこうして経営危機が訪れるんです。

じゃあ、安定した就職って何なのでしょうか?いい高校、いい大学、いい企業に行ったとしても多くの人は企業の倒産を経験してしまいます。いい成績を取り、先生の言うことをよく聞くいい子ちゃんなだけの生徒は、こんな社会で生き残っていけるのでしょうか?

そのあたりも考えながら教育をしていきたいですね。



2つめは、長期分散投資の有効性です。

今回は、中国の大企業の経営危機で多くの投資家たちがデモを行っていますが、先ほども述べたようにほぼすべての企業が倒産してしまう可能性がある現代ではそういったことも考えとかなければいけません。

確かに恒大集団は期待ができる企業でしたが、かといってそこだけに投資をするのはリスクが高すぎます。

そこで、長期分散投資です。分散しているということはそれだけリスクも拡散されますので、こういったことが起こったとしても他の資産が生きているのでそこまでのダメージはありません。ちょっとはありますけどね。

ただ、物価は長期的に見れば常に上がり続けます。今までオイルショックリーマンショック等で株価が暴落したことはありますが、長期的に見ればその水準以上に復帰しています。

長期分散投資なら、ローリスクでリターンが求められるんですね。

長期的といっても5年や10年の話じゃなくて、もっと長期の20年ぐらいを見れば、ということなのでお気を付けください。

更に、定期的に定額のお金を入れ続ける積み立て投資なら、株価が高い時期には少量の投資を、低い時期には多くの投資ができますので更にリスクを下げることができます。




投資の話だけではなく、こうやって多様な方法で何かをすることでリスクを下げる事は大切なことだと思います。

漫画家の手塚治虫もこのようなことをおっしゃっています。


「みなさん、夢は二つ以上持ってください。僕も漫画家と医者という二つの夢を持っていました。夢が一つしかないとその夢が破れた時挫折してしまう。でも二つ以上夢があればそうはならないでしょ」


夢を持つことや何かの可能性にかけることは悪い事ではありませんが、それはただのギャンブルと言っても過言ではないと思います。

常に複数の選択肢を持ち、できれば1つは確実に、1つはチャレンジをするような事をすれば、人生においてもリスクが下げることができるのではないでしょうか。

教員という仕事の魅力がなくなってきている

教員採用試験の倍率が毎年下がっている事が話題になっていますね。いくつかの都道府県では、実質倍率が1倍を切っています。

 

その要因としては、SNSの普及があげられます。

 

多くの先生方がTwitterをはじめ、教員の働き方について発信しています。

 

それによって、SNSユーザーである未成年の人が教員のブラックなところがバレてしまったんですね。

 

最近では、教育大学に通っているにもかかわらず一般就職をする人が増えています。sのりゆうが気になったので、論文検索サイトの「CiNii」で「教育大学 一般就職」で調べたんですが出てきませんでした。意外とこういった研究はされていないのでしょうか。

 

教育大学に行って一般就職をした知り合いは「教員の仕事がブラックだから」と言ってました。やっぱりそこなんですね。

 

大学生だけでなく、教職大学院を出ている人でも一般就職をする人が出てきています。教職大学院って、修了すると「教職修士」って学位が与えられるんですが、これって名前の通り教職に就かないと効力を発揮しない学位なんです。

 

にもかかわらず一般就職する人が出てくる職場は間違いなく健全ではありません。

 

 

こんな危機的状況にも関わらず、文部科学省がやっている事の多くは仕事を増やす事。学習指導要領は段々と分厚くなっていますし、GIGAスクール構想で多くの先生方はタブレットの扱い方に苦しんでいます。

 

教員採用試験の倍率を上げる方法としては、採用試験の内容を簡易なものにするとか、「教師のバトン」で現状の働き方のまま教師の魅力を発信しようとしたりで実際の仕事の方法を変えようとはしません。

 

よく考えれば教育は全国民が受けるわけですから、教員という仕事は国民の全員にPRできるわけです。しかしそのアドバンテージを無駄にしまくり、順調に倍率を下げてしまっています。

 

 

もっとたくさんの人に教員を目指してもらうには、教員という仕事を魅力的なものにしていくしかありません。

 

働き方改革という観点をはじめ、文科省が行っているような微々たるものではなく、教員の仕事についてもっと大胆に改革していってほしいです。

働き方改革で教育の質は上がるのか

多くの会社で働き方改革と言われてからもう短くなくなっていますよね。

 

働き方改革とは、「社員全員が働きやすい環境にしていこうね」って考え方で、一番取り上げられるのが「定時には帰れるようにしようね」って所をはじめ、勤務時間に関するところだと思います。

 

学校現場、特に中学校では部活動により多くの先生方が当たり前のように残業をしています。しかも無給で。まぁ厳密にいえば無給ではないんですが、無給といても過言ではないでしょう。

 

これはよくないという事で、令和5年度からまずは休日の部活動は地域に任せましょうって通知が出されたりしてるんですね。

 

教員の働く環境はこれからだんだんと良くなっていく気がします。それにより、教員にも余裕ができると教育の質が上がると思います。

 

 

その一方で、働き方改革が進んでももしかしたら教育の質は上がらないんじゃないかと思う事もあります。

 

そう思う理由は、「給与の年功序列制」と「終身雇用」です。

 

この2つって簡単に言えば、「働いていれば年々給料上げていくよ」ってことと、「定年まで雇用を保証するよ」ってことですよね。

 

つまり、どんな働き方をしてようが、問題を起こさなければ生活が保証されるってことです。とはいえ終身雇用とはいえど、何か問題を起こせば減給やクビにはなるわけなので、問題を起こさないように働くことになります。

 

 

 

これにより、2種の教員を生み出していると考えています。

 

1つは、最低限しかやらない人。だって、最低限やってれば給料が上がっていくんですから。

 

もう1つは、チャレンジしたいけどできない人。教育熱心な先生方は、現状の教育にとらわれることなくいろんな事にチャレンジしようとされています。しかし、教育現場では事あるごとに「説明責任」という言葉で押しつぶされてしまいます。

 

授業では、子どもに何が身についたかよりも、実際に重視しているのは「何を教えたか」です。逆に身についていなくても「○○は教えました」と説明することができればそれでいいんです。

 

だから結局、無難に働くことになってしまう。

 

 

働き方改革が進んで、どれだけ教員に余裕ができたとしても教員にとってチャレンジできる環境にならなければ教育の質なんて上がらないと思います。

 

残業を減らす、仕事を減らす事も大切ですが、教員がもっと働いててワクワクするような仕組みを作る事も大切じゃないでしょうか?

知ってしまったからこその悩み

先日、訳合って大学院のゼミの先輩と後輩とオンラインで話をしました。自分の代のゼミのこととか先輩の代のゼミの事とかを「懐かしいなぁ」と思いながら話をしました。

 

その中で、「西川研究室に入って学んだことによって、現場で苦しむこともあるよね」という話になったのが印象に残っています。

 

 

西川研究室って何を研究している所かと言うと、「教育をどうやってよくするか」なんですよね。教育大学の大学院なんやから当たり前のことなんですが、最近は『学び合い』の研究もあまりしていないのでみんなやる事がバラバラ。専門も何もないんです。

 

なんなら最近は研究もしているゼミ生が少ないので研究室と呼んでいいのか、、、。

 

「日本の教育をよくするために何らかの活動をしている集団」になるんですかね。

 

 

 

そんな研究室での1つのテーマとして「幸せ」があると思います。どうすれば教員が幸せな働き方ができるか、教員として働いた時にどうやって自分が幸せになるか、将来子どもが幸せになるにはどのような教育をすればいいのか。

 

そこを考えていくと、現在の学校にある多くの矛盾に気付いていきます。

 

例えば、よく言われている「個別最適化」について。「一人一人の子どもに対してそれぞれの能力やニーズに合った教育をしましょう」という事だと思うのですが、学校は時間割によって全員が同じ場所に集まり、学習指導要領によって全員が同じ教育を受けることになります。

 

「これから情報化が進んでみんなICTが使えないといけないから(それ以外にも理由あありますが)全員にタブレットを配ろう」といってGIGAスクール構想を打ち立てるも「義務教育は学校にきてなんぼだろう」というお偉いさんの意見によって義務教育でのオンライン授業は出席ではなく出席停止扱いになります。

 

子どもの将来のことを考えても、自分の好きな事を追求して自分だけの武器を手に入れる必要がある世の中であるにも関わらず偏差値教育というのは未だに根強く蔓延っています。

 

 

これはよくなんじゃないかと日本の教育を変えるために活動しているのが西川研究室なわけです。

 

 

僕は無事大学院を修了し、専修の教員免許を手に入れて学校現場に出たわけですが、やれることはやってみるとはいえやはり枠組みの中でしか活動することができません。いくら僕が「おかしい」と思っていても、学習指導要領は法的拘束力を持っているわけで、それをしないという事は法律違反になってしまうわけです。

 

教員は宮仕えなので自分が生き残っていくには教育委員会文部科学省の枠組みの中で仕事をしていかなければならないのですが、どうしても不完全燃焼のまま日常が過ぎ去っていってしまいます。

 

現在の職場は本当にいいい先生方ばかりで、1年目の新米教師にも関わらず僕の好きなようにさせていただいているのですが、それでもどこか自分の中で全力でできていないところがある気がします。

 

これは子どもの将来のことを考えるとどうなのか、これは本当に教員の仕事なのか、学校教育のこういったところはアップデートしないままでいいのか。

 

 

 

西川研究室を出ていなければそんなことに悩む必要はないのですが、知ってしまった僕はどうしてもそのように考えてしまう。

 

まぁそれは誰かに使えている以上、学校じゃなくてもそのような悩みはきっとついてくるんですけどね。

 

とりあえずは、上手に自分をだましながらやっていきます。

「堅い性格」ってどうなの?

自分で言うのも何なんですが、ちっちゃい頃から優等生やったんですよね。

 

テストでも結構いい点数取るし、運動もそこそこできたから成績はほとんどが5段階の5で残りは4。小・中と児童会長・生徒会長で学校の外の野球チームでも小・中と1番キャッチャーでキャプテンをやってました。

 

家庭訪問とか3者面談とかはだいたい母親が立ち会っていたのですが、「1回やってみたい」と1度だけ僕の家庭訪問に父親が立ち会った事があります。その時の父親の感想が「お前先生の家庭訪問、ひたすらお前の事褒めてて面白くない」と、褒められたのに父親にディスられるといった事もありました。

 

まぁとにかく手のかからないいい子だったと思います。

 

 

そんな僕を見て母親が「たかしは堅いもんな」と言っていた事を覚えています。

 

姉も成績が良かったり児童会長とか図書委員長とかやるような人だったんですが、性格的に僕は堅実に生き姉は冒険するといった感じで、そんな姉弟で対比して僕の事を「堅実」と言ったんだと思います。

 

 

確かに、母の言うように僕はどっちかと言うと堅実に生きてきた方だと思っています。先生を選んだ理由としてももちろん色々あるんですが、「給料が良くて安定している」という事は間違いなく上位にあります。

 

ただ、その「堅い」というのはいい所について思う事があります。

 

堅いってつまり、「成功する確率が高いものを選びがち」とも言い換える事ができると思います。あんまりチャレンジしないって事ですよね。

 

 

 

また、学校の先生に気に入られていた理由も、決まっているルールを守り、先生のいう事は忠実に聞いていたからだと思うんです。

 

確かにルールを守ることも大切なんですが、それらを守る事が正義でそれら自体を疑う事をしてこなかったんです。

 

 

 

でも、今考えると果たしてそれでいいのか?と思う事が山ほどあります。

 

そんなに確率が高い事ばっかりやっていていて面白いのか?忠実に誰かのいう事を聞くだけならAIにだってできるんじゃないのか?この先もそうやって生きていくのか?

 

 

 

大学院に入ってやっと自分のそういった正確に対して疑いの目を向けることができました。

 

そして今、過去の堅い僕からやっとアップデートしている所です。