明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

習ったことは覚えているというのなら教材研究なんていらない

「それこの前習ったやん!」
「それ中学校で習うことやで!」

この言葉、結構聞きますよね。

でも、習ったからと言って全部できる人は天才です。

また、習ったからと言って全てできるようになるなら、教員が頑張って教材研究をしたり授業を考えたりする必要も無いわけです。

習った範囲を全部覚えているなら、黒板に書いてそれを説明してという方法が一番効率が良くて授業スピードも速いです。


ただ、実際そんな人間いないわけですよね。大人の僕らでさえも、職員会議で言っていた内容を全て覚えている訳ではありません。また、長い会議の間ずーっと集中できている訳でもありません。

「そんなことまだ中学生にはできないんじゃない?」と言っている方もいらっしゃると思いますが、そんな中学生に「習ったことは全て覚えているのが普通だぞ」というのは酷じゃないでしょうか?



僕は、先生が教えているか、教えていないかによる説明責任についてあんまり納得できていません。

範囲じゃないところからテスト問題を出すことは間違えていると思いますが、だからって教えている所を全て覚えている訳でもありません。

逆に、その説明責任に引っ張られて教えた“事”にしている方もたくさんいらっしゃると思います。だって、教えてないことになると責められるんですから。

そういったことから、教育では暗黙裡に「身についたか」よりも「教えたか」が重視されてしまっているんだと思います。実際大事なのは間違いなく前者ですよね。

学習内容を身に付けるためには、教師から教えられるのではなく、自ら学ぶ事が大切だと思います。だから、「主体的・対話的で深い学び」という言葉が強調されたんですよね。

しかし、学習指導要領でそうやって言われたからって、学校文化により主体的な教育が阻害されてしまっています。



そういった状態に陥ってしまうのは、学校評価が受験に関わってくることが原因だと思います。

自らの学習状態を振り返るためにある評価が、実際には受験のためだけの者になってしまっている。だから、教育熱心な過程は血眼で評価をあげるために努力し、納得いかなかったら「本当に教えたんですか?」と説明を求めてくる。

ってかそもそも、灘高、東大受験では授業で習ってない事もいっぱい出てきますよね。そこに説明責任はいらないんですね、、、。

こういった学校文化に変化が無ければ、いくら学習指導要領を変えようが、1人1台タブレットを持たせようが何も変わりませんよね。