先日、文自らを成長させるための3セットとして、本を読み、自ら考え、他者と議論するという事を紹介しました。
この「本を読む」について、池上彰さんの『なんのために学ぶのか』に書いてありましたので、今日はこのことについて記事を書きます。
本を読むことで、自分が知らない知識を得ることが出来ます。
まぁ、本じゃなくてもいいんですけど、自分が持っていない知識をどこかから仕入れてくることは成長するためには必要な事ですよね。
でも、本を読むだけでは、その新しく仕入れた知識は自分の知識になっていないんです。
本を読むって勉強している気になりますよね?
動画とか音声は自分が受動的でも勝手に進んでくれますが、本は自分が主体的に読まないとページが進むことはありません。
まぁ、当たり前のことなんですが。
でも、この自ら読んでいるって感覚が、学んでいる感を強めるのだと思います。
でも、実際に本を読むことってものを考える苦労がほとんどありません。
自分が新しく何か考えなくても、読んでいるだけで新しい知識がはいってくるのですから。
ショウペンハウエルは書籍『読書について』の中で、「読書にいそしむかぎり、実は我々の頭の中は他人の思想の運動場に過ぎない」と述べています。
でも、ショウペンハウエルは本を読むことに意味がないと言っているのではなくて、本を読んだ上でその知識を自分のものにするためには、読んで得た知識について自分で考える必要があると言っています。
そして大切なのは、自分で考えたうえでその知識が自分の中で腑に落ちているかどうかです。
「言ってることはわかるけど、なんかもやもやする、、、」
この状態はまだまだ自分の腑に落ちていません。
いくら考えても腑に落ちない場合、大切になってくるのがこの記事の最初で紹介したブログの3セットのもう一つ「他者と議論する」ことです。
僕も大学院に入ってからたくさんの本を読んできました。
でも、読んで満足していたらその知識はきっと自分の物にはなっていないでしょう。
こうして読んだ本のことをブログにしてみたりメモしたりして自分で一度考えてみる、そして他者に話すことで自分の中で腑に落ちていないこと気付いたり、他者に気付かせてもらったりする。
そうした過程を経て初めて自分の教養として身に付くことになります。
本を読むことは絶対に自分にとってプラスになります。それは間違いありません。
でも、読んだだけではその本の知識は自分のものとすることが出来ていないと思われますので、ぜひ自分の頭を他者の思想の運動場にするのではなくて、自分の中でちゃんと腑に落として、自分の中の教養として身に付ける作業をしてみてはいかがでしょうか?