西川先生が以前、こんなことを話していました。
高校は、聞かなくても教えてくれる所
大学は、聞きに行けば教えてくれる所
大学院は、聞きに行っても教えてくれない所
「え、聞いても教えてくれへんの?じゃー大学院のゼミの先生ってなんなんやろ、、、」
そう思いました。
この話を思い出したのは、以前にも紹介した池上彰さんの『なんのために学ぶのか』を読んでこんなことが書いてあったからです。
小学生は「児童」です。まだ子どもであり、大人が ちゃんと保護しなければいけない対象です。中学・高校は「生徒」と呼ぶのがふさわしい。先生からさまざまなことを教わる立場なので生徒と呼んでいます。
大学教育はこれとは全く違います。大学における「学生」とは、自ら学んでいく生き方をする人間のことです。
あぁ、なるほどと思いました。
小学校もそうですが、中・高校には文部科学省が作成をした学習指導要領に基づき、先生はそれを基に子どもに授業をします。
学ぶことは国から定められているのです。
しかし、大学は違います。
大学の中で取らないといけない単位はあるものの、自分の興味のある授業を取り、卒業論文は自分の興味のある分野を自分で調査して書く必要があります。
もちろん、ある程度国から取るべき単位や取らないといけない単位は決められていますが、主として学ぶことは自分で決めます。
僕は、この大学の学びこそ、本来の学びの姿だと思います。
勉強とは
勉・・・無理に力を出して励む
強・・・強制する
という意味の言葉で成り立っていますが、小~高校まではこのイメージが私にはあります。
自ら学ぶことをしていない、学ぶ意味が分かっていないので、その結果先日のブログにも書いた「なんで勉強するの?」という言葉が生まれるのだと思います。
今先生をされている方の児童生徒だった時代は、「主体的・対話的で深い学び」とか「アクティブ・ラーニング」という言葉はもちろんまだありませんでしたので、「勉強」をされてこられたと思います。
でも、勉強をすることが当たり前だったため、「なんで勉強するの?」という質問が出ること自体が「???」なのではないでしょうか?。
ひと昔前であれば、いい高校、いい大学に進学すればいい会社に進学でき、ある程度の生活ができるようになっていました。
しかし、今はそんなことはありません。
むしろ、今まで先生から言われた事だけをやっていて、自分から何かをするという経験をしてこなかった人は社会でお荷物になってしまいます。
言われたことを忠実にやるの能力は人間よりもロボットの方が遥かに高いです。
そうではなくて、誰かに強いられることなく自ら「学ぶ」と言う姿勢を子どもの頃からしている人間の方がこれからの社会では重宝されるはずです。
そう考えると、「大学院は、聞きに行っても教えてくれない所」というのは納得できます。
答えは先生に聞くのではなくて、自分で見つける必要があるからです。
この記事を書きながら、最近のテーマである「なんで勉強ってするの?」という迷路で、さらに迷子になっていっているなぁと感じています。
勉強ってなんで必要なんでしょうか?