明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

自分の説明がいかに彼らの学びを阻害しているかを実感した授業

僕は、1年生4クラスの数学Ⅰの授業を担当しています。

 

 

残りのクラスはもう一人の数学の先生が担当されているのですが、その方は

 

「え、先生アクティブラーニングってやつやってるんかぁ、すごいなぁ」

「teamsできるようになったら1年数学はすぐにでも使おうな」

 

と新しい事に前向きなイノベーター先生なので本当にやりやすいです。

 

 

 

これなら自分が本当にやりたい授業ができる、と思い切って『学び合い』をやっています。

 

 

大学院時代にお世話になっていた高校で、数学で『学び合い』を実践されている先生がいらっしゃったのですが、

 

その方の『学び合い』を参考にさせていただきながら実践しています。

 

 

万振りの『学び合い』ではなく、最初に本当の要点だけ教えて、あとは子どもに任せて、最後に内容と活動についてのまとめをする。

 

 

そんな感じで授業を進めていました。

 

 

 

ある日、「俺の説明ってほんまに必要なんかぁ」とふと思い、

 

プリントを配った上で「説明聞きたい人だけ聞いて、聞かんでもできる人は授業聞かずに進めていいからな」

 

と授業をしてみました。

 

 

いつも通り最初ちょろっと説明して(この時点で聞いている人が少ないのは感じていました・・・)、説明が終わったら活動させて

 

終わった人から電子黒板のホワイトボードの欄に名前を書かせる。

 

 

その日の最後に

 

「俺の授業、聞いてた人手上げてください」

 

と聞くと、全クラスで手をあげたのは5人以下。

 

 

「あぁ、なるほど、、、」と、そこで改めで僕が黒板を使って授業を進める事が無意味かを痛感しました。

 

 

 

その次の授業では、全く説明無しで活動をさせてみました。

 

 

すると、やっぱり全員名前を書けるんですよね。

 

 

僕の授業を聞いていた、という人ですら僕の授業が無くても新しいことができるようになっていた。

 

 

その授業を通じて、僕の授業は無意味なだけではなく彼らの活動を阻害しているんだなと痛感しました。

 

 

 

大学院の時に、『学び合い』について一通り学んでいたつもりではあったのですが

 

いざ自分が授業をするとなってそういうことをしてみると

 

本に書いてある事が心の底から理解できました。

 

 

実感を伴った学び

 

理論と実践の往還

 

 

そんな言葉も大学院の時に耳にしたのですが、

 

手に入れた知識は実践することによって自分の力になるんやなぁという事も併せて学びました。

 

 

それにしても、やっぱり子どもは有能やなぁ。