明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

コロナ禍においても停滞を続ける教育について

もうすぐコロナ禍3年目に突入しますね。

 

 

この2年間医療をひっ迫させ、たくさんの方の命を奪い、人々の交流をも奪ってきました。

 

 

コロナ禍初期は恨むべきはウイルスのはずなのに、未知のウイ、県外ナンバーの車を傷つける人もいました。


 


 


しかし人間はそんな状況にもまけず、あらゆる方策によりコロナに対抗し、今では多少ですが外出もできるようになりました。


 


 


人間ってやっぱりすごいなぁ。


 


 


 


 


むしろ、このコロナ禍をきっかけに多くの改革的なサービスなども始まりました。


 


 


フードデリバリーサービス、ビデオ通話、映像コンテンツのオンデマンドサービスなど。


 


 


絶望的な状況にも負けずに立ち向かい続けることで令和の大開発とでも言いましょうか、アフターコロナにも負けないものがたくさん現れました。


 


 


コロナに対抗するだけではなく、新しい時代に向けた試みには本当に脱帽です。


 


 


 


 


しかし、なかなか教育は変えるのが難しいんだなって感じています。


 


 


2020年新年度、安倍元総理は全国一斉臨時休校を要請しました。


 


 


世間に「このウイルスはやばいぞ」と強烈な印象をつける政策だったと思います。


 


 


もちろん、「学習の進度が、、」と不安視する声が非常に多かったことも事実です。


 


 


そこで、GIGAスクール構想のタイミングも重なる事もあり、たくさんの人がオンライン授業に挑戦しました。


 


 


学習の映像コンテンツ化は、分からない子が何度でも映像を視聴できる優秀なコンテンツとなりえる可能性があり、日本が目指している「個別最適化」な教育に向けて大きな前進だったと思います。


 


 


 


 


しかし、生徒が登校するようになると、教育では前に進むことではなく元に戻す作業が行われました。


 


 


多くの業界が前進した中、教育だけが停滞を選んだんです。


 


 ルスの強烈な不安からか、コロナにかかった人を悪者扱いしたり

「主体的・対話的で深い学び」や「アクティブ・ラーニング」、また「GIGAスクール構想」という言葉はまさに一人歩き状態です。

 

 

 

 

コロナ禍によって、安倍元総理の政策によって日本の教育は一時完全停止しました。

 

 

しかし、それによって学校がなぜ必要なのかという所も見えてきているはずです。

 

 

ポイントとなるのは「友人との交流」にあると思っています。

 

 

先日、上教大の赤坂真二先生の記事を見ました。

 

kyoiku.sho.jp

 

多様な人々との協働が求められる時代の要請や、福祉的な意味での学級経営や学校の意味がコロナ禍で再評価されてきました。

 

 

学校は子どもたちが関わり合う事で大人になる場であり、子どもたちの居場所の一つであるべきではないでしょうか?

 

 

もちろん、だからといって教科教育をないがしろにしていいかと言われるとそうではないのですが、現状を見るとコロナ禍においてもなお教科教育が最上位にあり、学級経営等は二の次にされている感覚があります。

 

 

小学校はまた別かもしれませんが、、、。

 

 

 

そこから脱却するためには、子どもや子どもを育てている親が受験競争という枠から解放される必要があります。

 

 

そのためにどうすればいいのか、、、

 

 

まぁきっとほっておけばいつかは教育も前に進まざるを得ない状況になると思います。

 

 

ただ、できるだけ多くの子どもや保護者、そして先生方がこの事実に気付き、はやく教育も新しい時代に適応したものに進めばいいのになと思います。