明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

ある程度の事は無条件に飲み込む方が楽に生きられる

「カロリー25%カットが、昼食に3分の2カップのチーズを使うレシピ」


に対して、皆さんはどのようにチーズを測りますか?



https://www.nier.go.jp/shirouzu/publications/pub_6.pdf


この論文の男性は、


まず3分の2カップのチーズを測り取り、その後チーズを平らにして伸ばして、のこりの4分の1を取り除いて使った



そうです。



間違ってはいませんよね?



でも、これって結局


2/3×3/4=1/2


なので、最初から半分削っておけば済む問題なんです。



この人は大学で微積分学のコースを取っていたにも関わらずです。





これが何を表しているかというと、学校の数学の時間でならったことは、日常生活に活かすことがなかなか難しいということです。



学習指導要領でも数学手では「論理的思考を育てる」って事を書いてますが、その論理的思考は「数学の時間における論理的思考」であって、日常生活にはなかなか転移しません。





逆に、四則演算や比率などの学校数学ができなくても、日常生活での計算には不自由しないという結果も得られているそうです。





ただ、そこを全面的に出してしまえば、現在の学校教育が成り立たなくなってしまっています。



三宅芳雄さんの「教育心理学の研究方法」という論文では、


「教育現場には,根拠のない,行き過ぎた学習の転移への信仰がある.一番極端な場合は,言葉の魔法が起こり,学ばれたことは,それと同じ名前で呼ばれるものすべてに自動的に転移すると仮定される.言葉の魔法と過剰な転移への信頼は通俗的な教育についての考え方で本質的で不可欠な役割を果たしているが,これは,そうでないとほとんどの学校教育を正答かできなくなるからである」


とはっきりと述べられています。



本当にその通りなんですよねきっと。





じゃあ結局数学って何でするのか?



結論、受験のためなんですよね。



学校で数学を勉強する理由も色々言われていますが、受験のためと言うと味気ないからとか学校教育の目標である「人格の完成」からそれてしまうからみんな気付いていてもはっきりと言わないんじゃないでしょうか?



数学に限らず、ほかの教科も、実技教科である体育だっていい成績を取って受験を有利にするためなんです。



逆に、そこを「数学っていうのはなぁ・・・」って数学について語ってしまうと、結局納得できずに勉強をする意味が更に分からなくなってしまうんじゃないかなぁと思います。





世の中には、変に納得しないほうがいいこともあります。



受験に関しては別にルールで決められている事ではないんですが、「何で勉強するのか?(勉強しないでいい理由)」を考えてしまうことで、勉強をするモチベーションが下がってしまいます。



逆に、「勉強は受験のためにするもので、頑張っていれば偏差値の高い高校に進学できる」と割り切ってしまう方が納得できると思います。





これは、世の中で定められたこととか、人から言われたことに疑いを持たずにYesマンとして生きていくことを示唆するものではない事を勘違いしてほしくないのですが



全部が全部「何で?」と考えてしまえば生きて生きづらくなります。



何で学校では制服を着ないといけないのか、何で学校ではスマホを持ってきてはいけないのか



なんで会社ではスーツを着ないといけないのか、何で会社ではスマホをいじってはいけないのか



疑問になることなんて世の中にはたくさんありますが、そのルールに従わないと先生や上司に怒られるし、それを続けると退学やクビということになってしまいます。



たしかにそのルールによってちょっと不便になるかもしれませんが


「学校いってあいつと一緒におるの楽しいからまぁややこしい事はしないでおこう」


と考えた方が楽ですよね。



それが嫌ならその環境の中で結果を出してルールを変える側になるか、転職する等環境を変えるかのどっちかしかありません。




わざわざ変えられないことに疑問をもって反抗するよりも、ある程度の事は無条件に飲み込んでそれに従いながら別のところで自分の好きなように生きていく方が、楽に生きられますよ。




もちろん、我々教員側は「この活動は本当に生徒の未来を幸せにするものなのか?」という疑問を常に持ちながら教育活動をしていく必要があることは言うまでもありません。