明日から本格的に授業が始まります。
体育の授業も2コマ入っています。
しかも両方剣道。
帰省して改めて新潟の寒さを実感している中、明日から剣道の授業で裸足でなんてやってられるのだろうか、、、。
自分が辛いことを生徒にも強要する事って普通に体罰ですよね、、、。
と剣道を裸足でやらなくてもいい理由を探しています。
さて、「教員は聖職である」という言葉をよく耳にします。
コトバンクでは
「 僧侶や司祭など、宗教的に人を教え導く神聖な職に従事している人。また、教師にいうこともある。」
と、wikiでは
「聖職という言葉には「神聖な職」という意味があり、「聖職者」というのは、何らかの宗教において、人々に教えを説き、人々を導く役割を果たしている人のことを指している。」
とされています。
教師は「人々を教え導く」という意味で、聖職者と言われているのでしょうか?
ちょっと気になったので下記の記事を読んでみました。
【教師論の基礎】教師とは何か?―教師聖職者論・教師労働者論・教師専門職論 | 眼鏡文化史研究室
この記事によると、教員は
①聖職者
②労働者
③専門職
の3つの論があるそうです。
僕個人的には①聖職者論はあまりすきではありません。
教員は子どもの将来の幸せのために働いていますが、それが「人を教え導く」という所でそれが神から与えられた崇高な使命であるような考え方はなんかちがうなぁと思います。
もちろん、教師1人の1つの言動によって子どもの成長や進路が決まってしまうという責任もあり、誇りもありの仕事である事は間違いありません。
僕も、教員という仕事を誇りに思っています。
しかし、だからと言って自分の身を削って働いたり、教員として働くことに給料なんて求めてはいけないといった考え方は違うと思うんですよね。
まぁ最近はここまで過激な考え方の人はなかなかいないと思いますが、
今日の働き方を狂わせてるのってまさにこの「聖職者論」であったり先日ブログで書かせていただいた「子どものために中毒」であったりするんだと思います。
教師とはいえもちろん自分の人生もあるわけやし、自分の人生が一番大事なのは当たり前です。
家族がいる人は、家族の人生が一番大切なのは当たり前です。
にも関わらず、話によれば「野球部顧問の妻被害者の会」なるものも存在しているという話を耳にしました。
きっと奥さんに被害が及ぶほど教育に熱中しているひとは、教育そのものが自分の幸せに直結していると思うのでそれはそれでいいのかもしれません(よくありません)が、
そういった人々の働き方が歓迎されてしまう職場だと、本来自分の人生を大切にしたい人も無理やり教育に熱中しなければいけません。
まぁこう書いてしまうと、教育に熱中できる教育聖職者の方々が教師という仕事に向いているのかもしれませんが、それによって教師を目指す学生の減少による資質能力の低下や教師の離職、残業時間の増加などの弊害がもれなくついてきます。
そもそも教師も聖職者とは言われているものの一人の人間なので、完璧な人間なんていません。
教育聖職者としてではなく、完ぺきではない人間として生徒の成長をサポートし、仕事をしながら成長し、なにより自分の幸せを保証していけるような職場になればいいのになぁと思います。