明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

時間に期限を設けない人は時間をダラダラと過ごしてしまう。

一昨日に総体が終わり、明日から女子テニス部は新チームになります。

 

 

今の2年生は、新チームになって自分たちがチームを引っ張るようになったら、こういう事がしてみたい!という思いがある学年で

 

総体で負けてしまった事、先輩たちとのテニスが最後になってしまった事を悲しむ時間は一瞬で

 

総体に負けた後すぐ学校に行って練習を行っていました。

 

 

気合入ってるなぁ。

 

 

元々彼女らの学年は、練習熱心な学年で

 

朝練も毎日欠かさずにやっているし

 

全体練習後の自主練も誰よりも残って練習をしている。

 

 

そんな彼女らを見て引退した3年生も

 

「後輩とはいえほんまに尊敬しています」

 

って言葉を残して引退して言ったほどです。

 

 

そんな彼女たちを見ていると、自分もいろいろしてあげたいといった思いが出てきます。

 

 

練習して球出しぐらいできるようになっておこうとか

 

人数が奇数で試合が回らない時に、自分が入って調整できるようにしようとか。

 

 

ただ、それでも「彼女らが練習に満足するまで学校にいてあげよう」という思いにはなりませんでした。

 

 

部活は仕事であって、その仕事が無給で勤務時間外に行われている事への違和感は抜けていませんし

 

何より時間を決めてやらないと、長々と練習しても結局はどこかでダラダラしてしまうと思うからです。

 

 

教員という仕事も、一応定時の時間ってのはあるんですが、定時で帰れる先生なんてほぼ皆無ですし

 

そのせいで結局「この時間には仕事を終わらせて退勤する」という人が少ないように思います。

 

 

この時間までには仕事を終わらせないといけないといったように、期限を設けてる人はその時間までに終わるように効率よく仕事を進められるのですが、

 

「残っている仕事がおわったら帰る」といったように、時間ではなく仕事の量によって帰る時間を合わせている人は、時間が無限にあるように感じてしまって仕事をダラダラしてしまいがちです。

 

 

部活の練習も一緒で、

 

「19時まで自主練を頑張る!」って決めている人はその時間まで練習を効率よくしますが、

 

時間を決めずに練習をしている人は「長く練習をすればいい」と思いがちです。

 

 

まぁ彼女らの場合、練習をしたいという思いと同時に

 

友だちと長く一緒にいたいという思いもあるんじゃないかなぁと思いながら様子を見ています。

 

 

それはものすごくいい事なんですけどね。

後悔しないために

昨日、総体がありました。
 
 
テニスでは団体戦というものがあって
 
登録10人中6人(3ペア)が試合し、
 
2勝した方の勝ち、という形です。
 
 
2ペアは決まっていたのですが、3ペア目は最後まで悩みました。
 
 
次の世代のことを考えて2年生を出すか
 
3年生の底力を信じるか。
 


僕は、終わりを思い描くことを考え、最後は3年生を選びました。
 
 
結果は負けてしまいましたが、オーダーに後悔はありませんでした。
 
 

 
悩んだときにはいつと、最後を思い描いたときに
 
後悔しない道を選ぶようにしています。
 
 
 
そうすれば、大体のことか最小限の後悔で済むようにはなります。
 
 
 
 
にしても、彼女らと部活をするのはたのしかったな。
 
 
ありがとう。

自分の説明がいかに彼らの学びを阻害しているかを実感した授業

僕は、1年生4クラスの数学Ⅰの授業を担当しています。

 

 

残りのクラスはもう一人の数学の先生が担当されているのですが、その方は

 

「え、先生アクティブラーニングってやつやってるんかぁ、すごいなぁ」

「teamsできるようになったら1年数学はすぐにでも使おうな」

 

と新しい事に前向きなイノベーター先生なので本当にやりやすいです。

 

 

 

これなら自分が本当にやりたい授業ができる、と思い切って『学び合い』をやっています。

 

 

大学院時代にお世話になっていた高校で、数学で『学び合い』を実践されている先生がいらっしゃったのですが、

 

その方の『学び合い』を参考にさせていただきながら実践しています。

 

 

万振りの『学び合い』ではなく、最初に本当の要点だけ教えて、あとは子どもに任せて、最後に内容と活動についてのまとめをする。

 

 

そんな感じで授業を進めていました。

 

 

 

ある日、「俺の説明ってほんまに必要なんかぁ」とふと思い、

 

プリントを配った上で「説明聞きたい人だけ聞いて、聞かんでもできる人は授業聞かずに進めていいからな」

 

と授業をしてみました。

 

 

いつも通り最初ちょろっと説明して(この時点で聞いている人が少ないのは感じていました・・・)、説明が終わったら活動させて

 

終わった人から電子黒板のホワイトボードの欄に名前を書かせる。

 

 

その日の最後に

 

「俺の授業、聞いてた人手上げてください」

 

と聞くと、全クラスで手をあげたのは5人以下。

 

 

「あぁ、なるほど、、、」と、そこで改めで僕が黒板を使って授業を進める事が無意味かを痛感しました。

 

 

 

その次の授業では、全く説明無しで活動をさせてみました。

 

 

すると、やっぱり全員名前を書けるんですよね。

 

 

僕の授業を聞いていた、という人ですら僕の授業が無くても新しいことができるようになっていた。

 

 

その授業を通じて、僕の授業は無意味なだけではなく彼らの活動を阻害しているんだなと痛感しました。

 

 

 

大学院の時に、『学び合い』について一通り学んでいたつもりではあったのですが

 

いざ自分が授業をするとなってそういうことをしてみると

 

本に書いてある事が心の底から理解できました。

 

 

実感を伴った学び

 

理論と実践の往還

 

 

そんな言葉も大学院の時に耳にしたのですが、

 

手に入れた知識は実践することによって自分の力になるんやなぁという事も併せて学びました。

 

 

それにしても、やっぱり子どもは有能やなぁ。

1時間有給を取って優雅にミスドでブログを書いています。

今日は水曜日。

 

 

テニスコートはうちの学校には2面しかなく、いつも男子と1面ずつで使っています。

 

 

でも、2面ある日も欲しいよなってことで、週に1回男子とオフをずらして2面使える日を作りましょうってことになっています。

 

 

女子は今日がその休みの日。

 

 

明日は体育祭で、その準備のため授業も短縮で1時間早く終わっています。

 

 

体育科の先生に、「なんか手伝いますか?」ってお聞きすると

 

「んー、石拾いかな、、、。嘘嘘、人足りてるから大丈夫やで(笑)」

 

と言っていただいたので、1時間有給を使って帰ってきました。

 

 

今は自宅の近くのミスドロイヤルミルクティーとエンゼルクリームをいただきながら優雅にブログを書いています。

 

 

パソコンでブログを書くのなんて久しぶりやなぁ。

 

 

ミスタードーナツは、コーヒーやカフェオレなんかもおかわりが自由なんで勉強や作業におススメです。

 

 

 

昨年もそうやったんですが、こうやって有給がいただける職場に就かせていただけているのがありがたいなぁと思っています。

 

 

昨年の職場(小規模の中学校)と比べると、高校という職場の性質なのか、自分がやる事だけしっかりとやっていれば、早く帰ろうが何をしようがほとんど何も言われません。

 

 

学級経営や授業の方法も僕の裁量の部分が多く、最近はもはや何も教えずにプリントだけ渡して「さぁどうぞ」という授業になっています。

 

  

その代わり、自分から情報を取りに行かないと何も知らないまま物事が進んでいってしまうというドライな部分もあります。

 

 

でも、なんかそのぐらいが心地いいなぁと感じています。

 

 

 

昨年の職場は、本当に丁寧になんでも教えていただけました。

 

ただ、そこには

 

「学校って普通はこうだから」

 

といった意図が盛り込まれているように思いました。

 

 

一昨日のブログにも書いたのですが、僕は基本的に何かの型にはめられるのが嫌いなので、ありがたい気持ち半分、窮屈な思い半分、、、といった感覚でした。

 

 

しかし今年は、ほとんどが自分の裁量、そしてほとんどが自己責任。

 

 

ただ、分からないところを誰かに聞くと、その誰かは丁寧に教えてくれる。

 

1聞いたら100ぐらい教えてくれます。

 

「分からない事を誰かに聞ける能力」が大事であることを『学び合い』で生徒に伝えていますが、それを自分で実践して実感しています。

 

 

そもそも、先生という職業についている人は、多くの人が「教える」という行為が好きな方が多いので、本当に丁寧に教えてくださいます。

 

 

 

多くのことが自分の裁量、多くのことが自己責任。

 

でも、聞いたら教えてくれるし、気軽に有給が取れる職場。

 

部活動がある日は学校を出るのが19時とか20時を超えてしまう事もありますが、元々運動やスポーツは好きなので、そこまで負担にもなっていません。

 

 

いい職場やなぁ、、、と、しみじみ感じながら働くことができています。

別に好かれる先生になりたいとは思わない

総体前ということで、昨年度までの顧問の先生が顔を出してくださいました。
 
 
途中から来られたんですが、来られた瞬間部員がぐわーっと先生のところに集まりました。
 
 
いい先生だったんやなぁとそれを見るだけで分かります。
 
 
僕がこの学校を去ったあとに部活動に来て
 
先生と一緒のように生徒が寄ってくるような教員になっているかどうかは分かりませんが
 
僕自身は別にそこを目指していません。
 
 
 
なんせ、生徒同士がうまいことやってくれたらそれでいい。
 

欲を言えば、卒業したあとも遊びに行ったり助け合ったりできるような仲間になってくれればそれが理想。
 
 
だから、生徒から好かれる先生になりたいとかは思いません。
 
 
嫌われるのはもちろん嫌ですが。
 
 
生徒とはある程度の関係を保った上で、あとは生徒同士ができるだけたくさん交流できるように、
 
彼らのことを見守りたいなと思います。

目立たない程度に異端でいたい

ちょっとマイナーな音楽を聞いていたい
 
人とちがったものを持ちたい
 
 
そんなこだわりをもっています。
 
 
たとえば、今まで応援してアーティストもだいぶ人気出てきたから聞くのをやめるとか
 
みんなiPhoneやから絶対にiPhoneにしないとか。
 
 
型にはまってるのがなんとなく嫌なんですよね。
 
 
それは、多分教育にしてもそうで
 
今まで普通とされてきた教師の枠組みにとらわれたくないと考えるときがあります。
 
 
その最たるものが、授業ではできるだけおしえないという所だと思いますが。
 
 
もちろん、型にはまらないだけじゃなくて、
 
自分がやっていることに対してちゃんと説明できないといけないし
 
こはちゃんとやっているつもりです。
 
 
普通とはちがうこと、新しいことに取り組むことで
 
成功したり失敗したりもありますが
 
そうやって自分が成長してる感じとか
 
先に進んでいる感じが心地いい。
 
 
 
きっと、目立たない程度に異端でいたいんですね、自分は。

「仕事か家庭、どっちが大事か?」というのは明確にしておく必要がある

「仕事と私、どっちが大事なの!!」
 
というモラルジレンマ的な2択は多くの人が聞いたことがあると思います。
 
 
「そんなものに順位なんてつけられへんやろ、、、」
 
と、僕は思っていました。
 
 
両方大事ですもん。
 
 
ただ、いざ現場で働いてみて生徒に
 
「部活と奥さんどっちが大事なんですか!」
 
と質問されると、即答で奥さんやなと思いました。
 
 
多分、これをどっち付かずの状態で置いていると
 
両方が中途半端になってしまうと思います。
 
 
 
7つの習慣という書籍に
 
「成功するためには優先事項を明確にして、最優先事項を最優先にしてくださいね」
 
と書かれています。
 
 
奥さんが最優先なのか、部活が最優先なのか、クラスが最優先なのか、自分の時間が最優先なのか。
 
 
それらは人によってちがうと思いますが、
 
それぞれの順位付けは確実にしておかなければいけません。
 
 
そして、いざどちらかを優先しなければいけなくなったとき
 
順位の高い方を優先して、下位のものはどこかで折り合いをつけて切り上げないといけない。
 
 
 
それができなければ、全てが中途半端になってしまう。
 
 
先週はそれを強く感じた1週間だったなと感じます。