明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

学年というカテゴリの弊害

学校の中では、同じ年齢の生徒を1つの「学年」としてカテゴライズして教育を行っています。

 

 

そうやってカテゴライズして、「この学年ではこの授業をする」とやる事をきめて、一斉に授業をしてしまった方が、授業者にとって都合がいいから?ですかね?

 

 

しかし、現状を見てみると、一斉に授業をしている割には同じ学年でも学習の習熟度には大きく差があります。

 

 

それは当たり前のことで、数学が得意な人もいれば英語が得意な人もいるし、運動が得意な人がいれば絵をかくのが得意な人もいます。

 

 

やることを決めて一斉に「教える」という事をベースで考えると今の仕組みが一番効率的なのかもしれませんが、生徒の「習熟度」という所を考えると同じ年齢という事だけでカテゴライズするのは無理があります。

 

 

また、学年というカテゴライズは学習に限らず、人間関係という所でも弊害があるように思います。

 

 

例えば、部活動を見てみると、教育課程内の教育活動よりは異学年による交流が多い活動に見えますが、実際中身を見てみると多くの時間は同じ学年同士で話をしたり活動をする時間が多くなってしまいます。

 

 

実際に社会に出てみると、むしろ同じ年齢の人と仕事をする機会の方が多くなり、異学年の人といかにうまくやっていくかというのは、社会での死活関係に直結していると言っても過言ではないと思います。

 

 

にもかかわらず、やっぱり同じ年齢の仲間と話をしたり活動したりした方が楽だから、結局彼らは同じ学年で固まって活動をします。

 

 

「部活」という1つの集団にするつもりでも、教育では「学年」というカテゴリが強いため「○○部3年」「○○部2年」「○○部1年」という集団ができてしまいがちです。

 

 

それらの集団の間で、個人単位でフィットする組み合わせに関しては仲良くするのを見かけたりするのですが、集団単位で複数のの学年を「○○部」という1つの集団として彼らに意識させるのって結構困難な事だなぁと感じています。

 

 

 

集団とチームって、それぞれ違う意味なんですが、とにかく人が集まっていれば「集団」と呼ぶことができ、後者は共通の目標に向かって同じベクトルを持って活動することができればそれは「チーム」と呼ぶことができます。

 

 

教育課程内の活動にしろ部活動にしろ、彼らに集団としての目標を共通認識させることができれば学年問わず1つの集団として感じてもらう事ができる可能性はあるのですが

 

現在の「学年」というカテゴリがある日本の教育形態では僕の実感としてはかなり難しいです。

 

 

かといって、現状の「学年」というカテゴリがなくなる事はまずないだろうな(少なくとも公立の学校では)という所は感じているので、現状でできるベターなやり方をこれからも模索しながらやっていければなぁと思います。