学校では、本当に多くのことを学びます。
サ行変格活用、二倍角の公式、三権分立、ボイルシャルルの法則、まつり縫い、開脚前転、、、
極論を言ってしまえば、これらを将来使う可能性って5%もないと思います。
それらを学ぶ理由として、例えば数学やったら「論理的思考力を育む」等とされていますが、それやったら数学じゃなくてもいいやん、と思うこともあります。
数学の教員なそんなこと言っていいのか、と思われるとは思うのですが。
確かに、問題で与えられている情報と、自分が持っている公式を駆使して答えを導き出すのが数学なので、まさに論理的な思考を使ってはいるのですが
実は、知識は文脈依存的、つまり数学で身に付く論理的な思考力は数学でしか使えないことが研究によって明らかにされています。
多くの人は数学は受験や学校のテストでしか使わないので、その為だけの論理的思考力を育んでることになります。
それでいいのか学校、、、
学校ってなんであるのか?というところにフォーカスを当てると、ズバリ教育基本法に「人格の完成」とかかれてあります。
じゃあ、人格の完成ってなんやねん?ってことになると思うのですが、文科相のホームページには
「人格の完成」: 個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)。
と書かれてありました。
難しい言葉が並んでますが、
「人間としての能力を伸ばしていきましょうね」
ってことですよね。
人間としての能力の中に、きっと論理的思考力も含まれているとは思うのですが
本当に必要な論理的思考力は数学で発揮するものではなくて、人生において発揮できるもの、社会で通用するものだと思います。
そもそも、計算したり漢字に変換したりなにかを検索したりというのは、人間は機械に勝つ術はないです。
そんな時代では、人間が“だけが”具える能力を育てていかないといけない。
例えば、人に共感する能力なんかは機械にはないし、他にも人に気を遣うとか、困っている人を助けることとか、、、
人と人とが関わることによって生み出されるものは機械には生み出すことはできません。
それこそ、ぼくら教員が生徒に育ませなければいけない能力だと思います。
それを、授業の中で育む方法
それが『学び合い』だと僕は信じています。