書籍『7つの習慣』の2つ目の習慣「終わりを思い描くことから始める」についてです。
みなさんは、自分が死んだときに、お葬式で周りの人にどんなことを言われる未来が見えていますか?
けなされているのか、感謝されているのか・・・
もちろん、感謝されている未来を見たいですよね。
そんな将来を思い描きながら活動できていますか?
人生、行き当たりばったりで生きているという人も少なくないのではないでしょうか?
今目の前の分かれ道をどっちに進むべきか必死に考えていたり、今持っている地図を頼りに必死に道を辿ってみたり。
でも、そもそも走っている道が間違えていたり、持っている地図が間違っていたりすればどれだけ必死に進んだとしても正しい方向に進むことはできません。
僕らは地図ではなく、コンパスを持つべきなんです。
教育で具体的に例を挙げてみます。
多くの子どもは自分の将来に向けて必死に勉強していると思います。
その必死な子どもを支援しようと、塾に行かせたり私立の学校に行かせたりする保護者がいます。
勉強を必死にやることで自分の未来は明るくなると、今を必死に生きています。
しかし、勉強することで最終的に何になることを目指しているのでしょうか?
校務員?研究者?それともとくにやりたい事が決まっていない?
どれだけ必死に勉強していても、最終的に自分がどこを目指しているのか、何になりたいのかがハッキリしていなければゴールにたどり着けるかどうかも分かりません。
やりたいことが決まっているのなら、その勉強している時間を自分の目標に向かって別の活動ができるのに、やることが決まっていないからとりあえず勉強をしている。
社会に出ている人はうすうす気付いていると思いますが、学生の頃にやった勉強を社会で使うことはほとんどありません。
にもかかわらず、自分の目標が決まっていないからとりあえず勉強している。
逆に言えば「やることが決まっていなくてもとりあえず勉強というやることがある」という現状が、彼らの終わりを思い描くことを阻害しているのかもしれませんね。
終わりを思い描くことから始めることは人生を幸せにすることの「原則」であって、人間であれば当てはまらない人は誰一人いません。
大人も子どももです。
「目的は何か」という所から考える習慣は決して無駄にはならないと思います。
また、教師はこの原則を基に、マネジメントではなくリーダーシップを取るべきです。
「管理」ではなく「牽引」です。
子どもたちに「○○しなさい!」と教育するのではなくて「○○してみたら?」と提案する形です。
僕らは子どもの将来を決める力は何一つありませんし、逆に子どもを管理してしまえば子どもの自己管理能力が無くなってしまいます。
子どもを引っ張る教育ではなく、子どもの行くべき道を照らす存在であり続けたいです。