明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

期待から純粋な応援へ

最近、「期待」って「自分の価値観の押し付け」に近いんじゃないかなぁと考えています。



オリンピックがきっかけなんですけれども



前回のオリンピックで金メダルを取った小平奈緒選手は、今回のオリンピックではまだメダルを取れていません。



そんな小平選手は、前回の平昌五輪で金メダルを取った後



「いつも通り生活していても、周りの目が気になってしまっていた」と重圧を抱え、自ら「金メダリスト小平奈緒を演じなければいけない」という思いにとらわれていたそうです。



この「金メダリスト小平奈緒を演じなければいけない」という所を聞いて、「人に期待する事っていい事ばっかじゃないんやなぁ」と思いました。





もちろん僕も、小平選手には同じ日本人として頑張ってほしい気持ちがありますし、子どもが産まれて野球を始めたとしたならプロ野球選手になってほしいと思いますし、教師をしていても「このぐらいはできてほしい」といった期待が生まれます。



でも、その期待がその子の将来を思ってのものなのか、自分がその子に望んでいる未来なのかって所は非常に大きな所だと思います。



期待された側は、「次も金メダルを取らなければいけない」という期待に押され、「お父さんの期待に応えなければいけない」と無理やり野球を続け、「80点以上取らなければいけない」と言って勉強するので勉強が苦しく辛いものだと勘違いしてしまいます。





彼らは本当に金メダルを取りたいから競技をしているのか、プロを目指して野球をしているのか、自分の進路に必要だと思って勉強しているのか



その彼らの本当の思いをベースに期待するならいいと思うんです。



まぁ期待というか、純粋な応援って言ったらいいんですかね。



本当にプロ野球選手になりたいと思っているならそれを支援するようにバッティングセンターに連れて行ってあげたらいいと思うし、本当に成績が必要で勉強がしたいと思っているなら塾に連れて行ってあげたらいいんです。



でも、彼らの本当の気持ちと期待する側の気持ちにずれが生じたとき、それは重圧となりかれらの足枷になります。





学校の先生は「彼らに寄り添うこと」が大切だとされていますが、その意味を小平選手から深く学ぶことができました。