結局、いろんな目を気にしながら授業をするとやってしまう「教える」という行為

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陸上競技をやっているのですが、色々探り探りやっている結果、結局教えてしまっています。

 

今日はスタートについてやったのですが、「足は、前足はだいたいスタートラインから1足ぐらい、後ろ足の膝がだいたい前足のつま先と並行になるぐらいで構えて・・・」と教えました。

 

こうやって教えると、多くの子どもは確実にいいスタートが切れるようになります。でも、教えながら自分のやっていることに違和感を感じます。

 

こうやって教えることは、本当に子どもたちのためになっているのか?自分で考える能力やその機会を奪ってしまってるのではないだろうか?課題に対して解決策を見つけ出す作業とか、仲間と協働して解決に向かう事は大人になってからも絶対に必要な力。でも、正直走り幅跳びなんて大人になってからやる事はない。じゃあ自分はこれはいったい何をしているのか?

 

保健体育は教科なので、評価しなければなりません。でも、教えていない事は評価してはいけません(と思われています)。だから、教えます。でも、そうなると自分が教えているのは子どものためとかではなくて、評価をするためになってしまう。

 

自分は、子どもの評価をするために、子どもに授業を受けてもらっているのか?

 

これは絶対に違う。

 

教育の目的は「人格の完成」であって、集団で学校に集まって何かをするというのは、大人という社会に出たときに適応するための力を身につけるためだと思っています。

 

じゃあ、評価って何でしょうか?子どもがどれだけ成長したかを見るため、子どもがその評価によって自分の力を知るため、教師が自分の授業を改善するため、いろんな意味があると思うのですが、一番大きい理由はやはり高校受験のためという所ではないでしょうか。

 

体育は主要5教科ではないので、いわゆる内申点というものになります。しかし体育あ、偏差値が高くて将来エリートを目指す学校の評価にもなります。体育がその学校に行く多くの生徒にとってあまり役に立つものでなくても。

 

じゃあ結局内申点って何なんだろう。高校受験のための評価って何なんだろう。

 

この評価の在り方に関しては、これから絶対に変わっていかないといけません。評価に関して研究されている方もたくさんいます。それでも、なかなかこの高校受験のための評価って概念がなくならない。これがなくなるには、学歴社会が完全に崩れる必要があるんでしょうね。

 

そもそも、高校進学とか、大学進学とかって高度な専門知識、専門技術を見つけるためのものでなくてはいけないはずなのに、日本の高校進学、大学進学の現状は「社会に出なくてもいい期間を延ばすための場所」になってしまっている感が否めない。もっとドイツとかみたいに早く職業を決めないといけない進路設計になったり、アメリカみたいに「入るのは簡単、出るのは至難の業」みたいな大学が増えればいいのに。

 

 

話は戻りますが、まじめな先生であればあるほどその子の技能を高めるために一生懸命に教えます。でも、先生が教えれば教えるほど子どもたちが交流する時間、自分で考える時間は奪われて行ってしまいます。

 

そんなことを考えながら、結局いろんな目を気にしながら授業をするとやってしまうこの「教える」という行為。もどかしい気持ちでいっぱいです。