明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

「障がい者のために」というのは、彼らをフラットに見れていない

今日、連携校で車いすテニスの国枝さんが出演された回のプロフェッショナルという番組を見ました。

 

国枝さんは、車いすテニス最多連続勝利数(106勝)や、グランドスラム車いす部での優勝数45回など、様々な記録を打ち立てているいわば車いすテニス界のレジェンドです。

 

 

 

そんな方がこんなことを言っていました。

 

 

「無理にパラリンピックを盛り上げようとする風潮が気持ち悪い」

 

「本当に面白かったら、勝手に盛り上がる」

 

 

国枝さんは、車いすテニスをパラスポーツとしてではなく、競技として世間に認めさせようと試みています。

 

 

私たちは車いすテニスというスポーツを、パラスポーツだと言って「足の不自由な人がやるスポーツ」として見てしまっている気がします。

 

だから、普通のテニスに比べて激しくなかったりするようなイメージがあります。

 

 

しかし、実際の車いすテニスを見ると、全然そうではありません。

 

車いすを使っているからこその技術(素早いターンなど)があったり、車いすに乗っているにも関わらずサーブでは170キロの速度が出たりと本当に魅力的なスポーツだと思いました。

 

 

パラスポーツって、「障がい者のためのスポーツ」とかそういう風に思われがちかもしれませんが、実際はそうじゃなくて、インクルーシブなスポーツなんだと考え方が変わりました。

 

つまり、「誰にでもできるスポーツ」だという事です。

 

 

 

そんなスポーツを他の野球やサッカーのように見てもらえるようにというのが国枝さんの目標なんですが、どこか無理やりパラリンピックを盛り上げようとしてしまっている風潮が少しあるように思います。

 

確かに、足が不自由という理由で車いすテニスを選んでいるのかもしれませんが、だからと言って彼らは特別扱いしてほしいと思っているのでしょうか?

 

多分、そうではないと思うんです。

 

 

そのあたりは最近よく言われている「多様性を認める」とかそういったところにつながってくると思うんですが、「障がい者のために」と言っている時点でフラットで見ることができていません。

 

もちろん、「合理的配慮」というのは必要かもしれませんが、相手が本当に望んでいないいわば「おせっかい」は逆に相手を気付付けているかもしれないという事を僕たちは自覚した方がいいのかもしれません。