明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

なぜ自分はこんなに本を読むようになったのか?

自分が大学院に来てから変わったことの一つとして、”本を読むようになった”ということが挙げられます。

 

大学生まで野球ばっかりやってきた自分は、本なんて本当に読んできませんでした。

 

漫画ですらほとんど読んだことがありませんでした。

 

世の中には”活字アレルギー”という言葉もできているそうですが、まさにそれは自分のことではないかと思うぐらい本が嫌いでした。

 

特に小説とか文章ばっかりの本。

 

読むのめちゃくちゃ時間かかるし、同じ行何回も読んでしまうし。

 

こんなん読んで何がおもろいねんと思ってました。

 

 

 

しかし、大学院の2年目になった自分は気が付けば夜な夜な本を読んでいます。

 

5年前の自分はきっと今の自分の姿を予想もできなかったでしょう。

 

では、なぜ読むようになったのか?

 

それは読む必要性を感じたから、そしてその後、読むことに価値や自分にとっての得を見出せたからです。

 

 

 

西川研究室に入ると、”なぜ理科は難しいといわれるのか?”(通称:なぜ理科)を読まされます。

 

この時点ではまだ読ま”される”です。

 

この本は、『学び合い』の根本や理論が書かれている本です。

 

『学び合い』の根本や理論が知りたいという方には、この”なぜ理科”と”学び合う教室”はお勧めなのでぜひ読んでみて下さい。

 

AmazonにはKindle版しかありませんでした、、、

 

ちなみに西川研究室に入れば必ず通る道です。

 

※西川先生がノルマとしているだけで、読まない場合のペナルティはないので読んでいないゼミ生もいると思いますし、なんなら先輩方にも読んでいない方はたくさんいると思います。

 

 

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なぜ、理科は難しいと言われるのか?: 教師が教えていると思っているものと学習者が本当に学んでいるものの認知的研究 西川純 https://www.amazon.co.jp/dp/B07L498QJ5/ref=cm_sw_r_li_dp_wEVhFbESF5F5M

 

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学び合う教室: 教師としての学習者、プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析 西川純 https://www.amazon.co.jp/dp/B07L3QTZH4/ref=cm_sw_r_li_dp_wFVhFb6ZVH39R

 

 

 

話を戻します。

 

ゼミ生のノルマはなぜ理科だけではなく、他にも何冊かあります。

 

活字アレルギーの自分は苦しみながらも『学び合い』について知るために必死に読んでいました。

 

そして本の内容を西川先生に質問します。

 

そこで返ってきた答えを基に本を読みなおしたりします。

 

ここからもう少し字間が経つと、飛び込み授業の実践が始まったり、連携校での実践が始まったりします。

 

そこで、『学び合い』の実践が出来なければ相手に迷惑がかかるし、何より『学び合い』やそれに関わることを知っていなければ自分は損してしまう。

 

そう感じると私は、西川先生の本をひたすら読んでいました。

 

 

 

この辺りになると自分は読ま”される”状態ではなくなっていますよね。

 

しっかりと読む必要性を感じています。

 

それがさらに進行し、現在は教育以外の分野の本にも手を出したりしています。

 

それはもはや必要性の問題ではなく、本を読むことが”得”だと感じるようになっているからだと自分で分析しています。

 

これがもう一つ先のレベルになると、読むことが楽しいになるんだろうなと考えています。そして割と今ここに手がかかりかけてる状態だと自己分析しています。

 

 

 

強制→必要性→得→楽しい

 

といった流れで本を読むようになったと自己分析はしていますが、周りがやっているからとか要因はこれだけとは考えられません。

 

しかし、本を読む必要性や価値に気付くことが出来なければ、本を読むことが自分にとって得だという事が腑に落ちなければ読むことはできていないでしょう。

 

高校や大学のうちから読んどくべきやったとも思いましたが、高校生や大学生の自分に「本は絶対読んだ方がいい!」とセールスしたところで絶対に読んでいないと思います。

 

自分にとってて本よりも野球の方が大事でしたから。

 

本 <<<<・・・・・・・・・<<<<< 野球

 

ぐらい本より野球の方が価値があったし魅力的でした。

 

 

 

何をするにしても、人間やることの必要性や価値に自分で気づくことができないと、始めることはできません。

 

馬を水のみ場に連れていくことはできても、水を飲ませることができないのですから。

 

学校の教科学習や『学び合い』についても同じです。

 

国語や数学、体育すべての教科はやる意味があると思いますし、『学び合い』についても本を読んでいる方はご存知の通り子どもの生涯の幸せのために必要な力を身に付けさせるためには重要な役割を果たしています。

 

しかし、その価値をいくら語ったとて、こどもが必要性や価値が腑に落ちていなければやりません。

 

教師の気持ち次第で動く子どもも、もちろんいるはずですが、全員を動かす力は教師にはありません。

 

それができるのは(できる可能性が高いのは)子ども同士です。

 

「友達とやるのが楽しい」とか「あいつがやった方がいいって言うなら、、、」というような入りだったとしても、子どもたちどうしてやった方が、価値に気付ける可能性は間違いなく高いです。

 

こうして自ら価値を見出した学びこそが真の主体的な学びと言えるのではないでしょうか?

 

 

 

それにしても、自分がこんなに本を読むと思ってなかった。

 

ゼミ室の自分の机を見ながら、こんなに変わることもあるんやなとしみじみと感じました。