明日の自分へ

高校教員です。朝か夕方に、ほぼ毎日なにか書きます。

“全員で”を求められているか

自分の授業によって、生徒にどうなって欲しいのか

 

その辺りが曖昧になってる気がするので、一度整理しておこうと思います。

 

 

僕が生徒に求めているのは

 

◎全員が成果を出せる集団になること

・目標を達成するために、うまく人の力を借りれるようになること

・目標を達成するための過程で、自分のモチベーションをうまく維持すること

・目標の達成について、周りをうまく巻き込むこと

・目標を達成するために何が必要か考え、主体的に動くこと

 

かな?と思います。

 

 

繰り返し彼らに語ってるのは、

 

「成果出さなあかんねんで」

 

ってことです。

 

 

期末テストで点数を取ること、検定に合格すること、期限内に課題を提出すること

 

全て成果です。

 

 

その成果をしっかりと出すためにはどのようにすればいいのか、それを自分達で考えて行動するように話をしています。

 

 

最近は、やる子、やらない子の二極化が目立ってきてしまっています。

 

 

その理由はどこにあるんやろうか、、、と、悩んでても仕方ないので、黙って

 

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を読みました。

 

 

原因は、彼らが全員達成を望んでいないということ、つまり、僕自信が全員達成を求められていないということでした。

 

 

『学び合い』において

 

・全員達成を求め続けられるか

・できる子ができない子に対して目標達成の手助けをすることにメリットを感じているか

 

という2つは多くの人がぶち当たってる壁だと思いますが、まさに今僕もその壁が立ちはだかっています。

 

 

今からでもまだ間に合うはず。

 

 

“全員で”というところを、もっと求め続けよう。

 

兵庫『学び合い』の会

昨日、兵庫『学び合い』の会に参加しました。

 

 

『学び合い』を広げようと思ってもなかなか広がらない

 

教員は、子どもを自分の授業で引き上げることによって自己実現を図ろうとしている人が多い

 

 

そんな心に刺さる言葉を多く聞けた会でした。

 

 

教員の多くは、自分の憧れの先生がいて、その先生に近づくためとか、

 

自分は子どもの頃こうやってされて学校が嫌いになったから、自分はそういった子を出さないようにとか

 

教員をやっている人にはそういった理想を掲げている人が多いイメージです。

 

 

それらって、結局子どものためというか、自分の願望や自己実現ために教育をしてしまってるんですよね。

 

 

一方で、僕ら『学び合い』を実践している教員は

 

決して自分等が目立とうとは思っていないし、「自分の力で、、、!」と考えている人はごくわずかなはず。

 

 

そんな人が多い中で『学び合い』を広げようと思ってもなかなか広がらないし

 

理解してもらうのも無理があります。

 

 

それでも、一人で実践を続けるのはちょっとしんどい。

 

 

だからこそ、実践する上で『学び合い』を100%理解してもらわないにしても

 

「こんな実践をしてるんですよ!」

 

と話ができるような同僚を見つけていくことが大切なんだなぁと思いました。

 

 

また参加したいなぁと思える会でした。

 

 

次回は、2月26日(日)だそうです。

矯正されることが嫌い

僕は、わりと怒らないタイプの教員で、授業や学級経営も生徒に任せています。

 

 

その分、逆に一人一人に熱心に教える方ではなく、集団として教育はするけど、個人単位でやる気がなかったりする生徒に対して熱心に救おうとすることもあまりしません。

 

 

そんなときは

 

「取り残される人が出るクラスでいいんか???」

 

と、集団に投げかけています。

 

 

一方で、一人一人を教員の力で救おうとする先生もいます。

 

 

僕のやり方よりそっちの方が絶対にエネルギーが必要やし、すごいなぁと思う半面

 

エネルギーや時間には必ず限りがあって、やっぱ全員に力を注ぐことは難しいよなぁと感じます。

 

 

生徒にとっても、僕の指導が合う子もいれば、違う先生の指導が合う子もいます。

 

 

それは人間としては当然のことですよね。

 

 

そんな中で、僕は

 

“生徒にもっと選択肢が与えられること”

“教員の個性が活かせること”

 

の2つがもっと充実したらいいのになと思います。

 

 

例えば、生徒が担任の先生を選べるとか。

 

 

まぁ大学みたいになりますけどね。

 

 

そして、もうひとつの、“教員の個性”について。

 

 

授業の何が負担なんやろうかと考えたときに

 

将来教員採用試験に合格して、初任研や研究授業やらで授業を矯正されるのが嫌なんよなぁと感じています。

 

 

今の授業では、子ども同士が教えあって、協力しあってくれているのですが

 

一方でサボっていたり、遊んでいたりする生徒がいるのも事実で

 

きっと、誰かが授業を見に来るってなると、そういった子がフォーカスされて授業が検討されることになるんだと思います。

 

 

それがものすごく嫌なんですよね、、、

 

 

なんせ、初任研とか研究授業とかが嫌い。

 

 

まぁまだやったことないんですけどね。

働くべき場所はここなのか

自分が働くべき場所は本当にここなのか

 

ということは、たまーに考えます。

 

 

自分は、人が集まることによって楽しめる場を提供したいとか

 

大人になって社会で通用するような生徒を育てたいとか

 

卒業してからも支え合っていけるような友達をかれらにつくってほしいとか

 

 

そんな思いで教員をしています。

 

 

教員という仕事は、それらを実現できる職だと僕は考えていますが、

 

一方で

 

なんでそのために数学を教えてるんやろうかとか

 

なんでこんなことで注意せなあかんのやろうかとか

 

教員という職について疑問を抱くことも少なくありません。

 

 

もちろん、生徒も同僚もみんないい人で環境は満足してるのですが

 

そもそも教員が彼らに施していることは本当に間違ってないのだろうかと常に考えています。

 

 

まぁでもやっぱいちばんそうやって思うのは、授業をやってるときですよね。

 

 

授業がメインの仕事ではあるのですが、

 

商業科高校では数学はもはや副教科であって

 

彼らも数学という教科そのものに対してのモチベーションはそもそも高くはありません。

 

 

中にはタブレットをいじって遊んでいる生徒もいます。

 

 

僕は、それはそれで彼らが選んだ道であって、それでテストで点を取れないのも彼らであって

 

その彼らが損するのは目に見えてるので別になんでもいいのですが

 

それでも彼らを注意しなくてはいけないし

 

彼らはきっとそこまでは考えてないんだとは思うんですが、数学の授業をちゃんと受けることにそもそもメリットは感じていない。

 

 

授業の中で、主体的に学習をする力や、分からないところを人に手伝ってもらってできるようにする力とか

 

大人になってからも必ず必要な力を身に付けてもらえるような授業はしているつもりですが

 

それでも、自分がやっていることが本当に間違っていないのだろうか、自分の仕事はこれでいいのだろうかと考えています。

 

 

もっと、彼らのためになるような教育がしたいな。

自分について見つめ直す時間のおかげで

先日、こんな記事を書きました。

 

 

もっとポジティブな発言を - 明日の自分へ

 

 

人の悪口を言ってると、いつのまにか自分の心も荒んできますよねって話。

 

 

ある日、また人が悪口を言っているのを聞きました。

 

 

僕も、そこに混ざろうとしましたが

 

ふと、自分で書いたこの記事のことを思い出しました。

 

 

そこで、混ざってはあかんと自分に言い聞かせました。

 

 

多分、ブログを書いてなかったらまたそこに混ざってたと思いますし

 

ほんで、混ざろうとしていた自分に気付くことすらできていなかったと思います。

 

 

人のことはよく見えるけど、自分のことはよく見えていない。

 

 

これは本当のことで、だからこそブログをかくなりして、自分について見つめ直す時間が必要なんだなと思います。

 

 

ブログを書いている自分、ダメなことに気付いて行動を改められた自分、えらいぞ。

忘れてはいけない日

1月17日。

 

 

神戸市民にとっては忘れてはいけない日です。

 

 

高校からずっと神戸を離れていたため、この日に神戸にいるのは久しぶりです。

 

 

ほかの他府県では、ニュースでちょろっとやるぐらいでしたが

 

神戸では職員室は28年たった今でも震災の話があらゆる所で聞こえてきます。

 

 

それだけ、神戸にとって今日は大切な日なんだなと改めて感じました。

 

 

奥さんが行きたいと言ったこともあり、人生で初めて三宮の東遊園地で開催されている「1.17のつどい」にもいきました。

 

 

震災を経験していない世代の人もどんどん増えていますが、やはりこの日は大切にしていかないとなと思いました。

 

 



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心の中の情熱は留めておくしかなさそう

大学院生のとき、教育について色んな視点から考え、研究に触れることで

 

「教育を変えなければ!」

 

という情熱がありました。

 

 

また、割りと大きな西川研究室という研究室に所属し、

 

「僕の力でも教育を変えれるかも、、、」

 

と思っていました。

 

 

今でも、その情熱を復活させることは可能ですが、先程から過去形で話をしている通り、今でもその情熱があるかと聞かれると、正直だいぶ薄くなってます。

 

 

人は、なにか行動しようかと思うと自分にとってメリットがないとなかなか難しいのですが

 

そのメリットをなかなか感じづらくなってしまっています。

 

 

もちろん、『学び合い』の考え方での教育はいまでもバチバチにやってますし

 

採用試験の倍率や、時代についてこられていない教育の現状を見ると、変えていかないとなぁと心から思います。

 

 

でも、現場の現状からかけ離れすぎた考え方や言動をすると、現場での肩身が狭くなってしまうのは目に見えています。

 

 

教育についての仲間は増やしたいので、ふわっと『学び合い』の考え方とかについて話をしたこともありますが

 

受け入れてくれる人はなかなか見つかりませんし、なんなら話を出すのにも抵抗があります。

 

 

結局、隠れて『学び合い』をすることになり、たまーに教頭や主幹教諭が見に来きたときには「アクティブラーニングをしてます」と答えてごまかしています。

 

 

心の中の情熱はできるだけ心に留めておいて、隠れキリシタンのように実践するしか無いようです。

 

 

とにかく、まずは仲間を増やしたいなぁ。